渡独115日目 胸

 人よりも美術が好きとは言えそうなものの、審美眼やら知識やらに富んでいないので、大抵の美術館を見て回る過程で特に琴線に触れぬ展示群にあたる。美術と名のつくものを理解せんとする自分の知的さに悦に入らずとも、素直に心にビビ、とくるものを眺めるだけで十分満足できているが、折角目の前に機会が展示されているのに自分で対象を狭めるのも感受性を枯らしていきそうじゃないか、ともったいなくも思っている。何せ不勉強なものだから、少しでも退屈に思うものを切り捨てていったら、ルネサンス以前の西洋絵画、ほとんどの宗教画、歴史場面、肖像画、調度品、現代美術が当てはまり、目を向けない世界の広さに歯がゆくなってしまう。きっと単に私の社会的動物の部分が、私の規範である社会が価値あるものと認めたものに共感できないことを苛んでいるのではなくて、これだけの作り手の意匠に対して、何らかの形でそれを享受する側にある自分の度量(感受性やら、背景知識など)があまりに貧しくて、不甲斐なさを感じずに居れないのだと思う。

 せめてより多く見るために、任意のテーマを設定してその美術館を回ることがある。昨日のテーマは「女性の胸」だった。ウィーン美術史美術館の絵画展示の回廊におそらく出口から入場してしまったのだが、三番目あたりの部屋で見たBartholomäus Sprangerの知恵の女神Minervaの乳房があまりに印象的だったので、その後の作品もそれとなく胸に注目して観ることに決めた。これもギリシャ神話に明るいほど楽しめるタイプの絵画だので、気分と集中によっては素通りしていたはずだが、何かこの時の私の目を引いたのだと思う。大雑把な訳では題が「無知に対する勝者ミネルヴァ」となる。争いをつかさどる女性の神というものはいるものだから(カーリーやヴァルキリーといった曖昧な知識からの類推だけれど。)、ははあ、この女神は知性と争いに長けていて、だから肩当とマントと槍を身に着けているのだろう。そして画全体の中央、上辺から四分の一ほどの高さに堂々と露わになった若い胸が、敵を踏みつける左脚とともにこの絵の中で最も明るく視線を集めている。彼女のあまり重さを感じさせない胸が、槍を手にした右腕と後ろに下げた左腕のそれぞれにつられて若干向きを変えているところに、彼女の躍動を感じる。例えば授乳する女の絵のそれとなれば、大きく柔らかく重力に従って垂れ下がり、典型的な母性のシンボルにできるところだ。こうした描き分けはほかの作品にも無論表れているはずだが(例えば『民衆を導く女神の絵』なんかもそうなのではないか)、自分の目と頭で自覚に至ったのがこの絵だった。

 少ない作品からの意見なので定かではないが、少なくとも大雑把に分けると「若く、気高い女性の張のある胸(ミネルヴァはこのタイプ)」「妙齢、乳母、セックスワーカーの女性の胸囲の広く、下垂しうる重みのある胸」「ニンフや南国の女性などの開放された豊かな胸」「宗教画にみられる母性を象徴するためのモチーフ」のようなタイプが見られた。そのような類型ができるのではと何とはなしに仮説を持った状態で館内を進んでいたら、老婆といえる年代の女性がしぼんだ右の乳房を露わにする絵が現れて意表を突かれた。見れば作はアルブレヒト・デューラーである。うらぶれた笑みで首をかしげながら、金貨の詰まった袋を手にしている。余談だが、デューラーの人物画はほかにも表情が面白かった。やけにニヒルな表情のマリアがいるものだと思ったら、これも彼の作だった。こうした不穏さを感じさせる風俗画は大好きだ。なるほど、ここまでの順路の中にはそうした絵はなかったが、例えば移住による長い旅程や貧困の中にいる女性を書いた風俗画の中に、豊かさを表象することの多いこのモチーフがやせた姿というのは効果的であろう。

以前には「犬」をテーマに見て回ったこともあるが、ここでも農民の家庭や、長旅の一行の周りでは犬はやせ細ってあばらが見えるものもある。対照的に、中流~上流階級の室内になると毛並みと肉付きのよい犬が団欒の片隅に配置されたりするものだ。累計して法則性を導くのを目的としてテーマを持つのではないし、今回などミネルヴァの偶然でしかないが。少なくとも、「胸」というテーマが今日見たものが少し記憶に残りやすくしたので、ここに書くことができた次第だ。


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