笑いについて
自分でも書いていて恥ずかしいですが、これは僕が趣味で書いていることです。
多少サムくても許して欲しい。
ちなみに、今回の記事に笑う要素は無い。
笑いとは何か?
僕が笑いで一番疑問なのが、笑いは生き物に必要なのかということだ。
そもそも笑いとは何なのかを考えてみる。
僕は動物の機能には全て意味があると考えている。
まつ毛は目にゴミが入るのを守ってくれるし、汗は体内の温度を下げてくれる。
同じように笑いにも機能がある。
科学的には免疫機能の向上、自律神経の安定、幸福を感じる、など他にも色々な良い効果が認められている。
疑問なのはこんなにいい効果がある「笑う」を、何故一人で出来ないのかということだ。
生き物的に考えたら一人で笑えた方が効率がいい様に思える。
ここでYouTubeを見ればいいと考えた人は一度、僕と意識を合わせて考えて欲しい。
人類、何十万年の歴史で考えたら動画なんてここ最近の話でしかない。
しかし、笑いは火が発見される前から存在したはずだ。
何故なら、数十万年前の人類と現代の我々の身体的構造は変っていないからだ。
僕が想定しているのは人類史上で一番長かった狩猟採集民族時代だ。
この時代を想定して考えて欲しい。
話を戻して、何故人には笑う機能があるのか?
そして、何故1人で笑えない不便さがあるのか?
僕が最初に思いついた理由は集団を作るためだ。
基本的に戦闘は数が多い方が有利だ。
狩猟採集時代だったら1人で狩りをするより、
集団で狩りをした方が効率的だっただろう。
生物は生きて子孫を残すのが目的だとしたら、
生存確率を高めるために集団を作ってもおかしくない。
まとめると
集団を作る為に笑いは1人で行うことが出来ず、
また、無意識的に笑いを求めるようになった。
そして、集団を維持する為に笑いにはいい効果がある。
以上が僕の笑いとはの考えだ。
現代は1人で笑うことが出来るコンテンツが多く存在する。
しかし、多くの人が実際に人と会って笑うことを自然と求めてしまうと思う。
つまり、仮想的な笑いとリアルの笑いに人は違いを感じている。
それは本能的に集団を求めてしまうのが原因ではないだろうか?
笑いの要素
次は、いつ人は笑うのかを考える。
まずは笑いの要素を分解してみる。
僕が考える笑いの要素は大きく分けて2つ、
共感と意外性だ。
共感
僕たちは何故、そこそこの芸人より身内の方が笑ってしまうのか?
少なくともテレビに出る芸人が素人より面白くない訳がない。
その理由に共感があると思う。
僕たちがモノマネで笑うのは共感できるからである。
そのマネる対象が上司や先生だとより笑える。
つまり、身内に寄るほど、共感できるほど笑える。
しかし、モノマネを共感に寄せすぎると笑えない。
完璧なモノマネは本人と見分けがつかない状態だからである。
意外性
ではどうやって笑かすのか?
ここで意外性を足す。
凄く似ているけど、一部似せない。
よくあるのがマネの対象の特徴を大げさにすることだ。
さんまのモノマネで出っ歯にするのが当てはまる。
他にも「見目は橋本環奈だけど声は男」みたいなのも共感と意外性がある。
深い笑い
僕は笑いに深さがあると思っている。
浅い笑いは簡単で誰にも伝わり、
深い笑いは難しく一部の人にしか伝わらない。
例えば修学旅行に行く時、
ギターを持って来た奴がいるとする。
こいつにツッコむとして
浅い笑い
「いやギターいらんやろ」これが浅い笑いだ
深い笑い
「テラハか」
「ムーミンのスナフキンか」
「波田陽区か」これが深い笑いだ
どれか一つでも伝わったら嬉しい。
要するに、よりニッチなツッコミの方が面白くなりやすいというのが僕の考えだ。
これにはさっき話した共感も関係している。
浅い笑いと比べて深い笑いは、
一工夫されており、言うのも受け取るのも難しい。
だから、人が面白いと感じる物には差が生じる。
笑いの攻撃性
笑いには多くの場合、馬鹿にする要素が含まれている。
僕は学生の時、周りで笑っている人がいると僕が笑われているのかなと不安に感じたことが何度もある。
僕みたいな感覚が無い人でも、
人を指差して笑っている人がいたら不快になる人は多いと思う。
ここに僕は笑いの攻撃性を感じている。
分かりやすいのが強者が弱者を笑う構図だ。
例えば、ヤンキーがオタクを笑う時、
その笑いには攻撃性が含まれている。
笑いで上下関係は重要だ。
さんまの物マネをする時出っ歯にするのはイジメといっても過言ではない。
これが許されているのはマネをしている人より、さんまの方が立場が上だからだ。
つまり、弱者が強者を笑う時、
人は安心して笑うことが出来る。
これを意識していない人がイジメを引き起こすのだと思う。
笑いには攻撃性がある。
人の特徴をネタにする、馬鹿と言って笑う、
僕が見てきた限り多くがこれだ。
人を笑う時、相手も笑えるぐらい面白くする必要がある。
そして、自分が笑われるのも許す必要がある。
これが出来ていない人は総じて面白くない人が多い。
笑う勇気
最近、マイノリティーを大切にする活動が盛んになっている。
昔よりテレビの規制が厳しくなっていることも有名だ。
僕も昔は「ホモかよ」と平気で言えたが今は言えない。
笑えない空気が出来たからだ。
これは良いことだと思うが悪い面もあると思う。
このまま「人を笑うのはやめよう」という方向に進み続けると、どんどん笑いが無くなると思っている。
僕はいちいち同性愛者に理解があるとプロフィールに書く奴が嫌いだ。
僕は身近な人がホモだったとしても差別しない自信がある。
「ジャニーズだと誰押し?俺は岡田准一」っていじるぐらいだ。
もちろん、そこに差別感情がない。
もしそれが嫌な人はたぶん僕と合わない。
それは、ホモだからじゃなく感覚が合わないからだ。
僕が考える笑いは人を馬鹿にすることも笑いだが、
マジョリティーがマイノリティーを笑う時、イジメの印象が出てしまう。
だからやりずらい。
僕が「ホモかよ」と言った時、
ホモが「ノン気かよ」って言ってくれたら
どれだけ楽で面白いか。
僕はこっちの方が相手を普通の人として扱っていると思う。
そして対等だと思う。
マイノリティーは勇気がいるかもしれないが、
自分のコンプレックスは笑いに変えて欲しい。
そうすることで周りがやりやすくなる。
これはニートでもオタクでも何でもだ。
最後に
結局、笑いは必要か?の答えを出せていませんが、
少なくとも人は笑わないことは無理です。
笑ってはいけないと言われても笑ってしまう程、
人は自然と笑いを求めてしまいます。
笑いのネガティブな話もしましたが、
僕は笑いが好きです。
嫌なことがあった時、
ただの愚痴ではなく笑いに変えることが出来たら、
笑いの攻撃性も悪いもんじゃないです。
そして、それが出来るようになった時、
嫌なことはすべてフリに変わります。
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