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ブラームス交響曲第2番、ヤニック・ネゼ=セガンとアーノンクール

ヤニック・ネゼ=セガンの新譜でブラームス全集を聴く。第1番はそのテンポにまず驚く。バーデン・バーデンでレコーディングされたそうだが、彼の地でブラームスは少し小躍りだったのかしら。21世紀のブラームスはどこか土の匂いがしつつ、「ゲルマン的な重厚さ」よりも19世紀の多民族ヨーロッパを感じさせる。

2番の美しいフレーズに、想像の先のスラブ的な響きを聴く。そしてアーノンクールがベルリンフィルとともに録音した2番に帰る。ネゼ=セガンは室内学的なアプローチをヨーロッパ室内管に求めたそうだけれど、アーノンクールはまさにゲルマン的な重厚長大オーケストラであるベルリンフィルから枯れた響きを導き出そうとしている。しかし今聴くとやはり重い。あれ?と思う。もう少し軽かったようにも感じる。木管がもっと歌わせろと言っている。歌うとはどういうことなのか。アーノンクールがブラームスから導き出したかったのはスメタナの「我が祖国」でやったような響きだったように思っていたのだけど、やはりベルリンフィルは一筋縄では行かなかったのだろう。

突然瑞々しさが迸るのは旋律が回帰した瞬間だ。しかしその「迸り」ではネゼ=セガンに軍配が上がるかもしれない。私たちは21世紀の、それも四半世紀をもうすぐ迎えようとしている時代に生きているのだから、それもやむなし。むべなるかな。アーノンクールすらも愛すべき過去の音楽になっていくのだろうか(いや、ならない)。

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