最悪の場合ぬいぐるみ大好きおじさんとしてネットで生きるから
有り体に言って幸せと程遠い人生を送っている。広くもない、便利な立地でもない賃貸に一人暮らしで、自由に使える金も多くはない。突然車に轢かれた挙句相手方の保険会社から何故か怒られた。財布を何度警察に届けたかなんて多すぎて覚えていないが、1度だけなくした財布は1年帰ってこない。自転車の後輪は半年で5回パンクした。好きになった女の子は僕をバンドに誘ってくるし、断ったら連絡がつかなくなった。
ここまで意味不明な事件事故がすべてここ1年で起きているので、そりゃあ何か諦観じみた考えも浮かんでくる。どう考えても運が悪い。このまま一人で死んでいくんじゃないかと思うこともある。そう簡単に死んでやる気もないですけどね。100まで無病息災で生きてやりますよ。いやその時まで一人だったら全然苦しいな。
なんて話をすると絶対に言われることがいくつかある。そう。お前も幸せになれるよ〜みたいなやつ。奴らは不幸が来たら次には幸せが来るとか、幸せの量はみんな同じとか言い出す。
そんなわけないだろとデカい声で言いたい。大人だから、奴らが僕を励ますためにそんな綺麗な世界を教えてくれているのが分かっているから敢えてその場でデカい声は出さないが。
人生そんな簡単な仕組みな訳がない。そんなバランスよく配置される人生があってたまるか。よって本稿では、これらの議論について真正面からボコボコにしつつ、僕がうまく生きていくためにどう人生と向き合っていくべきかを検討することにする。
まず幸せの波問題だが、これに対する僕の主張は「幸せって相対的なものじゃないだろ」です。幸と不幸が人生の中で行ったり来たりするって実感することが正しい記憶なわけないだろ。高校生活は県内で1番行事がつまらない学校とかいう客観地獄でまぁまぁ楽しくやっていたような気がする。当時は不満タラタラだったけど。
すなわち、自分の今の経験以外にはすべて思い出補正やらなんやらかかってしまうのである。これでは幸せだった〜とか不幸だった〜とか言ってるだけ時間の無駄である。どうせそれはバイアス満点の記憶でしかない。今を生きろ。
何より、幸せを相対化してしまうことは他者と比べることにつながってしまう。それ自体幸せなことではないという最強カードは置いといて、そこには自分と相手が同じ基準をもって幸せだと考えている、という前提を持つことになる。あまりにもうんちすぎる世界である。世の中にはセックスしている時に幸せを感じる人間もいれば推しの配信を見ながら一人でラーメン啜るのが幸せな人間もいる。お前の幸せがぼくの幸せとは限らんだろう。
閑話休題
で、次にボコボコにしていくのは幸せの総量問題です。
なわけないだろ。頑張ってるやつと頑張ってないやつの幸せの量が同じでたまるか。おいらのほうが幸せになってやるんだい!という気持ちで毎日おいらたちがんばってんだからヨ。あとシンプルに、今幸せなんだよな、ってなったとしてこれから不幸がバランス取りにやってくるって考え方キツすぎないか。ぼくはそんなことになってしまうなら幸せキャンセルボタンを連打する。おいイーブイ、ニンフィアになるな。
小さい幸せ数えて生きてて、よし溜まった!幸せ解放!不幸ドカーーーーーン!!!!!!(不憫)
いやすぎる。さっきも言ったようにぼくは今を生きる人間なので、幸せ集めたところでその後デカい不幸来たらそっちに全部もって行かれる。無理だ。
というわけで、ぼくはたぶん、生きている間は曖昧な主観的判断によって自分が率直に幸せだな〜と思えるかどうかで只管現状を把握することができる、という性質を持っている。それだけなのである。幸せだな〜とならない間は今、ぼくの人生はぼくにとって幸せじゃないんだな〜と思うだけ。日々やるべき事をやり、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ。人も知らず世も知らず、影となりて悪を討つ。そういう生き方しかできないんじゃないか。
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