運命を選んで宿命に納得する
アンパンマンが与えるアンパンのかけら
身近に感じるようになるまで加速したネオリベと資本主義
愛による包摂と実力も運のうち
死の恐怖と損得勘定
tacica/命の更新のMV
たまたま拝見したとあるYouTubeの動画で人間の欲求の段階の話を聞いた。
ヒトはまず生存欲求が満たされると生殖欲求が高まり、生殖欲求が高まると成長欲求が高まり、成長欲求が高まると貢献欲求が高まるとの事。
マズローの欲求5段階説に似ていると思った。成長欲求と貢献欲求の壁は幸せにしようとするベクトルが自分に向かうのか他人に向かうのかの違いとのこと。
その話を聞いてパッと思い浮かんだのはアンパンマンだった。アンパンマンの与えるパンのかけらは愛の象徴であり、「美味しい、ありがとう!」の声を聞いて微笑むアンパンマンはまさに貢献欲求を満たすお手本と言えると思った。
アンパンマンのあのカケラを食べて「こんな不味いもん食わすな、このボケナス!(パンだけど)」と悪態つくシーンはなかったかと探してみたらそれは見当たらなかった。流石に。
という事は、アンパンマンの与えるカケラの実力はお客様満足度脅威の100.0%。現実離れした数値だ。当たり前だ。現実でないのだから。
であれば、仮にアンパンマンの与えるカケラの実力がお客様満足度50%以下だった場合、アンパンマンはどう感じるのだろうか、そしてどう動くのだろうか。
僕の仮説では、「食べてくれる皆んなが美味しいと思えない状態は悲しい。美味しいカケラになるよう努力しなきゃ」貢献しきれていない事象に対して貢献欲求がガソリンになって命を燃やすだろう。
「不味いと文句を言われて傷つくのは自分の心理的にストレスだから、美味しいカケラになるよう努力しなきゃ」と成長欲求止まりの思考する自分とは大違いだ。
本当に成長欲求止まりなのか?
いや自分への過大評価だった。
カケラが無くなりそう=生存が難しそうとなった時、カケラをあげる事を辞めるであろう僕は生存欲求バチバチの段階に本性を表すだろう。
アンパンマンならカケラがなくなり、顔がなくなり、命がなくなるとしてもそれが自分の宿命。ならそれが本望。与える顔がなくなるまでカケラを美味して配って皆んなを幸せにするのが僕の幸せであり使命。と言うだろう。そんな気がしている。
凄いなアンパンマン。
もし期待に応えられなくても次は期待に応えられるイメージがあるんだろうか。なくても成長欲求をあくまで他人に向けて貢献欲求にせんとする軸がぶれそうにない。気がする。
本当か?連続で皆んなから不味い、ボケナス…などと貶されても、まだそんな貶す皆んなの期待に応えようと努力するか?そのまま顔がなくなっても?そんな人生を本望とするのか?
と、徹底的に貢献欲求の軸がブレないアンパンマンをどうしても疑ってしまうのは現実の世界で僕が資本主義や新自由主義を目の当たりに生活しているからな気がしている。
僕は頼りにされるのは嫌いではないが、当てにされるのは切に御免被る。都合よく利用されているのではないか。この感情や懐疑を強く意識する事がよくある。
「実績を更新し続けろ」という自らの成長欲求ではなく、他者からの成長要求の元、拘束時間の延長や過剰な接遇の強要を通して、感情の否定や合理性の徹底を日々意識されられ、時には無意識に定着するまで働いた経験がある。
資本主義ビジネスの世界では、他社との競争でより合理的に結果を出す事を是とする考え方と認識している。とするならば、感情や疲労は合理的に結果を出すには不向き。
仕事にイライラして作業が進まなかったり、休まないと良質な成果が出せなかったりするならば、
人間なんて働かない方が良い。感情のない機械がシステム化され休みなく働く方が人件費もかからずに究極に合理的だ。
事実、ここ最近では随分色んな事がAIによる自動化が進んだ。その所為かどうかはわからないが、失業率も上がっているとこのと。将来なくなる職業も増えていくとのこと。
職業が減っている・失業率が上がっているということは、労働者間でも能力値による分断が進んでいるということ?はたまた、どの労働者を雇うか切るかを判断する経営者の目はよりシビアになるはずだから、支配する側の要求・される側の不満の分断もより広がってはいないだろうか?
現に、離職率も上がっているわけだから。
確か世界史で勉強した事を思い出すと、かつて社会主義の国は次々と崩壊し、多くの国は資本主義と新自由主義の元、今も競争が各所で繰り広げられているのだと記憶している。
A社がちょっと無理をしてB社、C社に差をつけるとB社・C社も負けじと、どれだけ無理できるか競争し勝って得たもの(資本)を使いまた競争をするのが新自由主義・資本主義だとすると、
自分が生まれる以前から当たり前とされていたものが今も続いている事が言える。「競争に勝てるようになりたい」は今回最初の方に書いた成長欲求だからベクトルは自らに向いている。
成長は常に進化やプルスウロトラする(限界を越える)事を求めているという事だから競争は常に加速度を上げていると推測できる。
そんな限界を超える競争が各所で行われているご時世が、僕たちが今いるフィールドだとして、たまに聴くセリフ。
「世の中には2種類の人間が居る。支配する者とされる者だ」先に書いた分断の象徴のようなセリフだと思う。
勝ち組や負け組という言葉もある現世では勝ち組を目指す・人を蹴落とす・損か得かを念頭に置く。そして幸せを「勝ち」取る。昨日の自分に勝ったとしても身の回りの誰かに負ければ淘汰される。それでは幸せは得る場所を守れない。そしてそれを是とする教育が行われる。
社会学者の宮台真司さんがそのような条件下で教育を受けると若者が希望を持てなくなるのは当たり前と仰っていた。
若者が希望を持てない状況で選挙の投票率が下がるこれも当然の事だと。少子化が進む。これも当然の事。際限なく資源をもとにして自由に資本化して競争していくなら環境が破壊されるのが止まらないのも当たり前。
だからこそ今、その先を生きる世代に必要な事、それは愛による包摂だと。
きっと能力や成果で人を見ない事、実績や肩書きで自分を認識しないもその一つなのではないかと僕は踏んでいる。
マイケル・サンデルさんという方が、「実力も運のうち」という本を出していて、その中の一分に
努力できる能力自体もギフト。環境や縁・運で有利・不利がある。これらを無視して自らの努力のみで成果を出したとエリートは認識しがちだが、そこに至るまでの過程でいくつも運・縁・環境などの要因が絡んでいる事を忘れてはならない。それが謙虚であるという事。という内容で自分は認識している。
(他にもいっぱい良いこと言ってます)
2019年にノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんの受賞時のスピーチになんとなく、「この人めちゃ良い人そうだな」と感じたのは、スピーチの内容で随所に「たまたま」とか「偶然」とか「運良く」などのワードが散りばめられていて、今はなんとなく当時感覚を説明できる気がしている。
本当の謙虚とは自分を下げることではなく、運と縁と環境を忘れず感謝することなのだろう。
「愛による包摂」と「運も実力のうち」というワードは一見、関係ないように並べてみると感じるが、実は両者は親和性の良いワードで今後重要となるワードではないかと思っている。そのお手本が僕が想像するアンパンマンというわけだ。
とはいえ、生存欲求バチバチ段階の僕には、それを実践して生きている事も含めて今の幸せを手放し与える覚悟は持っていない事をここで思い知らされる。
何処かで損得勘定が働くし、死への恐怖もアンパンマンや心臓を捧げる調査兵団と比べ物にならないほど大きい。
自分の中で、人間の生きる意味を問われた時、これといった理由はまだ見つかっていないが、古武術の第一人者である甲野善紀先生が、「人間は納得する為に生きている」と仰っていた。
そして「人間の運命は完全に決まっていて、同時に完璧に自由である」とも仰っており、最初は意味がわからなかった。
そういえば大学の授業で、運命と宿命の違いを教えてもらっていた。運命は自らどの道を選ぶか選択した結果で、宿命はこの世に生を受けた瞬間から決まっていたこと。であると。
例えば、自分が理学療法士になるのは運命で、男に生まれるのは宿命であるという事。
甲野先生の言う運命が仮に僕の言う宿命だとして、この先僕の宿命が明らかになった時、どう運命を選んできたか、また納得が出来るのか。そこでまさに愛による包摂が試されていると思った。
そんな事を考えていると、高校時代からよく聴いていたtacicaというバンドの「命の更新」という曲のMVにいつもグッときていた理由が今なら説明出来ると思った。
余談だが、アンパンマンのあのカケラ、皆んなに与えるのはアンパンマン本人だが、与えるパンを作っているのはジャムおやじなんだよな〜
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