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ムカデ競争と二人三脚

サーヤとニシダ
怠惰と個性
理想自己と現実自己
傀儡歴21年
競走馬と放牧馬
我ならざる我とその住処
成功体験と失敗烙印

最近ハマったお笑いコンビ「ラランド」のYouTubeチャンネルのニシダ更生プログラムという動画は色々考えさせてくれる内容だった。

ラランドは日本の男女のお笑いコンビでサーヤとニシダからサーヤが社長として立ち上げた「レモンジャム」という事務所にニシダが社員という形で所属している。

詳しくは割愛するが、このニシダがかなりのモンスター社員との事で、ニシダ更生プログラムという形で様々な番組関係者・スタッフからヒアリングした内容を聞いてもらうという企画が行われた。

現場に遅刻する。注意や指摘に対して逆張りした回答をする・はぐらかす。約束を守らない。などなどが挙げられたが、自分が気になったのは次の内容だった。


現場への気持ちの持って行き方が下手。
局面が不利になっていっぱいいっぱいになるとリスクを取らなくなる・冷静な判断が出来なくなった結果、趣旨を守れなくなる。
アウェーの場所に圧倒的に弱い。
自分が試されていると思う現場が苦手。
競走馬ではなく放牧された馬。
現場ですぐに目が動く。
総じて言うとメンタルが弱い。


身に覚えがあり過ぎた。

仕事ができない人に対する周りの人へのヒアリングという趣旨も個人的に身に覚えがある。
関係者・スタッフのアドバイスとしては


番組スタッフは「自分を試しているのではなく一緒に番組を作っていくチームだというマインドセットを変えることが必要。」

との事。
このニシダ更生プログラム、徹底的にニシダを追い込んで反省させるだけで終わるわけではなかった。

最後にニシダが1番尊敬する南海キャンディースの山ちゃんが登場しフォローするという流れだった。彼のアドバイスはこうだった。


俺には無理だろって止まるのは楽なんよ。
俺達目が泳いで天才にビビる組は、今持ってるものでそれをどう努力で駆使してあんな超人たちと戦って時には超人に勝ったんじゃない?って思う日がある方が楽しいよ。
この世界、俺とかニシダは努力賞でしか生きていけないからね。
スタッフの方々はみんな味方と言ってくれるが、とわいえと感じてしまう事はあるよな。みんな味方でみんな一緒に作ってるって気持ちになれる日はだいぶ先に待ってるから、みんな敵だと思ってビクビクしちゃうことはあるよ。一個一個その現場で成功体験をしていく事でビクビク減ってくから。
(↑個人的に刺さった発言だけ抜粋)


山ちゃんの言葉は他の誰よりもその場では刺さった様子だった。(その状態がずっと続くかどうかは別として)そして、企画は終了した。

動画のコメント欄に非常にニシダの状態が言語化されていると感じたものがあったので以下に抜粋↓


自分が意図するより先に自己防衛が入る時って、
感情の種類に関わらず、表情に出づらい
→感情を出すと自分の素(弱さ)を晒してる錯覚

自分への説教に対して「なるほどね」の俯瞰の一点張り
→真剣に向き合う=冷静さを失う=終わっている自分を晒すという錯覚

すぐにアップアップする、かつ頑張らない
→成果が出せない自分=無価値からそもそもスタートラインに立たない選択

約束をしない(これだけやって"変わります"とは言わない)
→これまで散々自分や他人の期待や理想を裏切ってきて、また無価値感に直面するくらいならスタートラインに立たない選択。

存在している自分は死んでるも同然ってレベルっていう肯定感の低さ、反射的に自分を諦めて楽に振る選択を何千回と取らせていて、最早自分が気づくより先に冷静ぶる、逃げる、忘れるボタンが押されるのかなぁと想像しました。結構生い立ちレベルで染みついちゃうと周囲の物差しとか世間の物差しをどれだけ冷静に持ち込んだところでかなり酷。

周囲の方がニシダさんを"変える"というモチベーションを待っている以上は何も変わらなくて、山里さんが仰っていた彼を仲間として対等に見る比率を少し高めて、周囲の方が"変わり"ニシダさんが勝手に"変わる"かもしれないのを待つのがいいかもしれない。(変わらなくてもいいよねくらいの力の抜け方)


自分ならニシダにどんな言葉を投げかけるだろうか。とここ最近ずっと考えていた。


別の方の同じような悩み相談に対しての、僕が尊敬する人の回答はこうだった


理想自己を確認したら頭から消して、近い目標をどのぐらいのスピードで通り過ぎるかイメージして、今日やることに集中する。

そうすれば、理想自己と現実自己のギャップに苦しむこともなく(理想自己を目指してはいるけど、頭の中から消えているから)、現在の自己受容に繋がって受身が取れるのではないかと思います。
難しいことですが、理想自己を持ちつつも消し、今日のことに集中すれば理想自己と現実自己の差を痛感させられる先輩や上司の言葉も受身で力を逃がすことができて、ストレスが少しは軽減するのではないかと思います。


心理学者曰く、この理想自己と現実自己の差が開いていればいるほど危険な状態であるとの事。ニシダや自分はまだまだこの開きが大きいのかもしれない。その為には何度も現実に直面して慣れる事(理想自己が下がる)と小さい成功体験を積んで現実自己を上げる必要がある。

でも、小さい成功体験も成功体験として自覚出来なかったり、成功体験を感じる前に度重なる失敗体験を先に感じてしまうとより脳は失敗した際の防御のニューロタグを強化してしまいかねないと思う。

語弊を恐れず書くと過度な自信は天狗になる危険を孕んでいるけれど、肯定感やモチベーションが低下している状態は極論天狗になる方へ舵を取る必要があると思う。
他者評価に依存しないのはその先の話。

今自分は、夫婦で子育てしているが、妻の方が子供といる時間は長く、先輩後輩、上司部下の関係者に近いと思う。

子育ても仕事もチーム制スポーツ等の試合も、二人三脚方式でお互いあるいはチーム全員に共通のゴールや趣旨が見えていると良いのだが、それには助け合える拮抗した実力が必要で、

現実にはムカデ競争のような実力のある前の人は広い視野がとれて他の人のフォローが出来るけど、実力の足りない後ろの人は前の人の脚を引っ張らないよう足元にしか目がいかない状態になるパターンの方が多いのではないかと思う。

しかし、妻とここまで大きなケンカにならなかったのは、(もちろん妻の我慢と)自分がムカデ競争の後ろ側の人間であり二人三脚フォームに型替えしなければならないという立場の自覚を持つ事は前提として

妻のフィードバック一辺倒にならず、フィードフォワードを巧みに使ったコミュニケーションを基盤に自分が失敗の烙印を他者から押される事なく、成長体験を積み重ねられたことが攻を奏していたと思う。
といってもまだ子供はまだ10ヶ月なのだが笑

(余談だが、妻はフィードフォワードのコミュニケーションをとった自覚は一切なく無意識だったとの事。我が妻ながら本当に優秀。本当これに尽きる。昨日直接感謝を伝えました。)

自慢をすればけなして、自虐をすれば褒めるという、自己評価の否定をされ続けていれば
その人は自分という存在の価値すら自分でわからなくなり
他者に依存することでしか生きていけない傀儡に成り下がってくれると仮定した場合

傀儡はフィードバック一辺倒のコミュニケーションは、ダメ出しで支配されてる。チーム全員自分の敵。妻は敵。職場の同僚、上司や先輩みんな敵。と、本来感謝するスタンスと逆の思考になりやすいのではと思う。

それが幼少期からともなると傀儡から人間に戻るには長い時間が必要になると思う。
先に断っておくと、今は恨んでいないが、個人的には小学生の高学年くらいからサッカーを始めてめっちゃくちゃ下手くそだったのでコーチ、チームメイトからダメ出しの他者評価をたっぷり浴びて試合もろくに出れずに傀儡一年生になった自覚がある。

だから自分が試されていると思う現場が苦手という指摘は耳が痛い。

以前から、患者の無意識を変えないと症状を改善したり希望を叶えられないと考えながら仕事している所為か、意識・無意識については色々考えながら生活している。

ここ最近、脳をはじめとする神経についての勉強が深まる中で、「中脳」と呼ばれる部位はとても興味深い部位だった。

以前、古武術の甲野善紀先生が他人が刀を振り下ろしたのを無駄な動きなく即座に躱すその姿と「刀を避ける際に避けようと思って反応し避けるのでは遅い。切られてしまう。刀を避けられたのは避けようと思う前に、我ならざる我が私の身体の指揮をとったのでしょう。」との発言にパラダイムシフトしたかの感覚はとても刺激的だった。

中脳は言わば、サバイバルにおける最終的な反応を引き起こす場所。逃走か闘争を決める場所である。甲野先生が仰られていた「我ならざる我」の住処は中脳にあるのではないかと今は思っている。

これも語弊を恐れずに言うと、極限に追い込まれた状況で思考より生命を守る早く最適な反応として今まで逃走していた者が、闘争に変わるベクトルが状況を改善させる良い方に向かえば良いのだが、

身の回り全てが敵と判断した際の我ならざる我が、無差別に闘争し「無敵の人」となる場合、あの秋○原無差別殺傷事件や登○通り魔事件のような悲惨な出来事が起こる可能も否定できないのでは無いかと思った。

話を戻して、ニシダや僕のような傀儡は、努力自体は大事だし残念ながら必須だが、努力次第で解決できるのに努力しようとしないそんな奴は周りから怒られて当然。擁護する点は一切ない。同情してる奴らは社会の厳しさを何もわかってない。という単純な話ではなく、

その人の社会的な繋がりをムカデ競争から二人三脚に出来なかったその先に、恐ろしい展開に陥る危険を孕んでいると自分の中のニシダに問うて考えるのは過度な飛躍なのだろうか。

*「モンスター社員、無敵の人」などのカテゴライズする表現はその展開を加速させかねない面がある事も考慮しなければならない事も承知の上、なるべく控えたい気持ちがあるものの、どう表現したら良いかわからず敢えて書かざるを得ませんでした。(誰にも指摘されてないけど先に反省)

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