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事件は感情で起こっているのだから

感情は厄介
無敵になれない理性
しょうもない小物治療家
白黒つける主人公のセリフ
愛と余裕で対応
貝になりたい

何かショックな出来事が起こったり、がったりしたり、辛い事があったりして傷ついた時、その時顔を出すのは感情だ。

ただ感情は厄介。自分はもとより他人にとっては大方、都合が悪い思いだからだ。聞かないに越した事はない。

他人にとって都合が悪いという事実はコミュニティの一員である事の自覚を(強く?)持っている自分にとって重要な事だ。

だから感情を理性で覆い隠してコミュニティの一員である為の資格を維持している(つもりだ)。

端的に言えば他人に気を遣って生きている(これでも)。妻にも気を遣っている。親にも気を遣っている。弟にも気を遣っている。というか気を遣っていない人など居ない。

裏を返せば、自分は自分に気を遣わない人間が嫌いだ。という事。
自分に都合が悪い人間が嫌いだ。

常に自分には優しく、そしてリスペクトを持ち自分よりこの私を優先しろ。と他人に要求する心がある。

だから感情は厄介だ。世界を支配したいと考えているのだから。
僕も含めて世の事件で悪事を働くのは大概は感情の方だ。

それに対して理性は論理的で常識的だ。世間の声に敏感で、我儘や心の反乱分子をいち早く察知してこれを根絶せんとする。

理性のお陰で社会はまわり今日もコミュニティの一員として日々を送れている。

しかし、理性が無敵かと言われるとそうではない。理性は理屈で構成されている。故に矛盾を生みやすい。全員に気を使うことを是とした際、例えばAさんに気を違う事がBさんに気を遣わない事になってしまう事がよくある。

理性の力には限界があり、感情の力が超えた時、理性で押さえつけていた力に比例して溢れ出し悪さをする。

理性は自分が生まれた後からやってくるもの。教育や、はたまた躾などによる学習の成果と思っている。教育や躾の類の様な他者からの介入がなければ基本的にはやってこない。

つまり自分とは感情で理性そのものは自分ではないと思っている。道具や機器の様なものだろうか。

だから時々、何処かで感情(自分)を出してあげないと感情(自分)がわからなくなる。

ここ数ヶ月?数年?、この作業を(少しはしていたか?)怠り作業の仕方すら概ね忘れてしまい、溢れ出た悲しみからくる怒りを抑えられなくなってしまった。

しかも仕事中に。非常に良くない。
さぞかし感じの悪い治療家だっただろうと後悔している。

さらには怒りを向ける相手を無意識にも選んでいる。いくら怪我人とはいえ刺青悶々が刻まれた筋骨隆々な患者にその怒りを向ける事は自らの安全に関わる事を感情(自分)は理解している。
いかに小物であろうか。しょうもない。

しかし、溜まりすぎた感情(自分)は、悲しみ・怒りの訳を説明出来ない。出し方を殆ど忘れてしまっているからだ。

今、メタで自分とその周りの環境を見ると思うことが、昨今の論破ブームなど、"それ"が正しいか誤りかを白黒ハッキリさせよう。黒は根絶しようという流れを個人的に強く感じてるから。

差別はなくすべき。多様性は認めるべき。浮気・不倫などは言語道断。親としての責務を果たすべき。家事・育児は能動的に行うべき。お年寄りは敬うべき。思いやりの心で接するべき。歩みを止めるな。期待に応えるよ常に努力。常に考えろ。勇気を以って恐怖に立ち向かえ。自己中心的な行動は慎むべき。甘えは取り去れ。苦しい時こそ一歩踏み出せ。お金を貰って仕事をするなら結果を出せ。権利を主張する前にまず義務を果たすべき。主張するなら客観的なエビデンスを元にしろ。より合理的な道を探り続けろ。…

全部正しく素晴らしき理性からくる論理という名の兵隊たち。物語の主人公が目前の壁を壊す際に自らに語りかけるセリフも多い。勇気づけられる場合もあるけど自分には無理すぎる要求。

この兵を駆使して数多のしかも議論のテーブルに立っていない感情すら、それを口に出したら同じと言わんばかりに駆逐されゆく現場を目にする事が自分は多くなってきた。

たちまち、自らの感情(自分)が生き残れるであろうという期待は持てなくなっていた。いや、明らかに誰かが手を下さずとも自らの手で容易に兵隊を使って感情(自分)を灰燼に返す事が出来ることを瞬時に把握していたんだと思う。

自らの感情(自分)は他人を世界を支配したい。コミュニティが自分の一部なのではなく自分がコミュニティの一部である事を良しとしていない。と感情(自分)は考えているのだから。
理性で駆除するなど雑作もないことだ。


仮に理性でこれを駆除するなら例えばこの兵だ。
「他人はコントロール出来ない。他人がどう思うかは自らの課題ではない」
「自己中心的な考えしか持たない人間が社会の流れを停滞させている」

ただ、理性で対応したって死ななければ感情(自分)は一向に救われない。求めてない意見・的外れなアドバイスと思うのが関の山だ。

感情で対応するには傾聴しかない。(本当にしかないかどうかは知らない)

どれほど理屈として破綻していても、共感し理解されその感情(自分)の存在を誰かに肯定して欲しいのだと思う。

ただそれは誰もが出来る事ではないし、いつでもできるとも限らない。莫大な愛と余裕、そして技術。場合によっては関係性が求められる。

そんな現実も自らの課題ではないとわかっていつつも無性に悲しいと感じる。
そんな話、自分の中で何万周もしてきた。

いつのまにか膨れ上がった承認欲求を目の当たりに恥ずかしいと感じている。
承認欲求は誰もが持っていることなどこんな馬鹿な自分だって百も承知。その大きさに羞恥を覚えているのだ。

キューブラロスの5段階
否認→怒り→取引→抑鬱→受容
の段階を踏むのだからショックをすぐに受容する事は出来ない。この話も何回もしてきた。

ノートに返して自分の考えを見直してみる…今やってるだろ。

自らが変容しなければ世界も変容しない…
そんな理性の話、もうたくさんだ。

世間の声…世間って誰のこと?
煩い。世間は世間だよ。

みんなの気持ち…みんなって誰のこと?
黙れ。みんなはみんななんだよ。

他人の手を借りずに楽になるには没入する事だと僕の持つ理性(道具)は示しているが、そんな余裕もなくなってきてこの先も暫くは時間も環境もその余裕が増える見込みが無さそうな事も辛いと思っている。

事件は感情で起こっているのだから、正誤の議論に引っ張り出さず、愛と余裕で対応して欲しい。(自分が出来ないのにか?して欲しい事があるならまず自分からだろ?受け取ることばかり考えて、自分のことにしか目が行ってないじゃないか)

やめてくれ…他人から受けた正しい指摘が今や自らの内なる声に変わって反響する。

誰にもわかってくれなくて良いからもう、自らの内なる声すらからも離れて愛と余裕に満ち溢れた環境に身を置いて静かに私は貝になりたい。

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