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「血がべっとりと付いた床…。 そこに転がっていたのは "妹の首" だった...」 「 日本軍を救った "盗賊団" 」 3000人を率いた "マレーの虎" と呼ばれた男・・・ ハ リ マ オ をご存知ですか?


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「血がべっとりと付いた床。
そこに転がっていたのは"妹の首"だった...」

1933年、マレー半島の
日本人街に中国人暴徒が侵入した。

暴徒たちは民家に押し入り、
風邪で寝込んでいた6歳の少女を虐殺。

首を切断してさらしものにしたのだ...
その残虐な光景は、

少女の兄であった"ある少年"を
強い復讐へと駆り立てた。

この少年こそが、
「マレーの虎」と呼ばれた日本人。

谷豊(たに ゆたか)。

谷は、この事件がきっかけで、

横暴を働く中国人や支配層を
専門に狙う盗賊となった。

奪ったお金は現地の貧しい人たちに配り、
まさに"鼠小僧"のような男だった。

そんな谷を慕って若者たちが集い、

ついには、3000人を超える
盗賊団のリーダーになっていた。

しかし、現地の 警察が
谷に莫大な懸賞金をかけ、

捜索を行ったことにより、
谷は逮捕されてしまう...

今まで行ってきた
盗賊行為を顧みれば、

かなり重い罪が課せられても
おかしくなかった。

しかし、そこへ現れたのは
"昭和通商"という会社の社員を名乗る
1人の日本人だった。

その男は言った。

「君の力が必要だ。
日本軍のスパイにならないか?」

突然、現れたその男の名は、
帝国陸軍のスパイ・神本利雄。

神本は、日本軍の運命を左右する
"ある作戦"を谷に託そうとしていた...
日本軍にスカウトされた"盗賊の頭"

p.s.

昭和30年代、一世を風靡した
ドラマ「怪傑ハリマオ」。

派手な拳銃アクションが
子供たちを虜にし、
大ヒットを記録しました。

実はこのモデルとなったのは、
今回、ご紹介した谷豊です。

谷は死後、アジア各国の新聞でも
英雄として取り上げられ、

神本と出会ってわずか2ヶ月で、
歴史に名を残す活躍をしました...

"怪傑ハリマオ"が成し遂げた偉業

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下記は、ハリマオ 〜 dizzのブログさんよりの転載です。 最後の方の文章には…、 ビルマとかアウンサンとか出てきて、何か他の方の話と混ざっているような感じですが、それ以前の話はとても興味深く読ませていただきました。

ドラマ・映画で知られるハリマオは、日本軍と共に戦った実在の日本人をモデルにしている。

盗賊だった彼がなぜ日本軍に協力したのか…

そこには2つの国の狭間で揺れる青年の苦悩が刻まれていた。

マレーシア北東部にクアラ・トレンガヌという大きな街がある。

美しいビーチで世界的に知られる島々への出発地として多くの日本人観光客も訪れる。

明治45年、日本からマレーへ移住してきた一家は、この街で小さな理髪店を開業した。

街には移り住んできた日本人も多く助け合いながら、商売を営んでいたという。

大黒柱が急逝したばかりの一家を悲劇が襲うのは昭和7年のことだった…

英語学校から自宅に戻ろうとした谷繁樹は「逃げなさい」という声を聞いて、近所の医者の家に駆け込んだ。

シナ人の暴徒集団が日本人商店の襲撃を始めていたのだ。

谷繁樹はひとりのシナ人が手に生首をぶら下げて歩いてく様を除き見た。

暴徒が去ったあと自宅に戻った繁樹が目撃したものは、血まみれになった首のない妹シズコの惨殺死体だった…

これがハリマオこと谷豊(たに・ゆたか)の人生を大きく狂わした、余りにもショッキングな出来事だった。

暴徒を目撃した繁樹は、谷豊の弟である。

惨事があった時、兄・豊は九州にいた。

徴兵検査を受けるために一時帰国し、そのまま日本の会社に勤めていたのだ。

しかも失意の最中であった。

豊は徴兵検査の結果、身長がわずかに足らず「丙種合格」となった。

これは不合格に等しい。

当時の規定では丙種は第二国民兵にあたり軍には採用されなかったのだ。

この不合格が、後に豊の心に屈折した形で残ったとも見られる。

テレビの草創期に人気を博したドラマがあった。

昭和35年から放映が始まった『快傑ハリマオ』という無国籍ヒーロー物で、主人公はターバン風の布を頭に巻き、2丁拳銃で悪者をなぎ倒す。

このモデルとなったのが日本軍と共にマレー戦線で活躍した谷豊であった。

ハリマオはマレー語で「虎」を意味するという。

ドラマ『快傑ハリマオ』の元になったのは、戦中の昭和17年に公開された『マライの虎』で多くの日本人にハリマオというマレー語が記憶されたようだ。

その一方で、実在のハリマオ・谷豊は、殆ど知られていない。

戦後暫くの間は、資料も少なく実像は不鮮明だった。

昭和60年に朝日新聞が「ハリマオの虚像と実像」と題した記事を掲載し「作られた英雄だった」と断じる。

この記事を切っ掛けに、ノンフィクション作家の中野不二男氏がハリマオ=谷豊に関する綿密な取材を重ね昭和63年『マレーの虎 ハリマオ伝説』(新潮社)を出版。

先駆的な調査で、大まかな人生の軌跡は判明したが関係者が物故しているなど不明な部分も多かった。

特に、ハリマオ=谷豊が、なぜ日本軍に協力したかといった重要な部分が抜け落ちていた。

その後、マレーシアの政府職員でもある土生良樹さんが平成8年(96)に『神本利男とマレーのハリマオ』(展転社)を上梓し、謎が解き明かされる。

敬虔なムスリムである土生さんは、ハリマオ=谷豊と行動を共にしていたマレー人から直接話を聞くことに成功。

欠落していたジグソーパズルが見事に完成する。

以下に記す秘話は、主にこの二冊から引用している。

そして、この先の「その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市」の外伝にも相当し藤原参謀の著書に頼る部分も多い。

【たった独りで始めた復讐】

戦争直前、ハリマオの名は、マレー北部で大盗賊集団を率いる大頭目として名を馳せていた。

部下の数は3000人。

統治者の英国人や金満華僑を震え上がらせていた…

人を殺めることはないが、各地で襲撃を繰り返し、そのクビには莫大な懸賞金が懸けられていたという。

開戦前からバンコクで諜報活動を続けていた田村浩大佐(陸大28期)は妙なウワサを聞いていた。

「マレーの有名な盗賊ハリマオは日本人のようだ…」

あくまでも伝え聞く風評で、事実はまるっきり判らない。

だが、ハリマオとは紛れもない日本人・谷豊であった。

妹がシナ人に惨殺されたことを福岡で知った谷豊は、単身マレーに渡り、犯人探しを始める。

下手人のシナ人は裁判にかけられたものの無罪放免で消息不明になっていたのだ。

この時、ハリマオ=谷豊、21歳。

谷豊は、統治者のイギリス官憲に強く抗議するが逆に不審者として一時投獄されてしまう。

更に、伝手を辿って日本の政府関係者にも懇願するが誰も取り合ってくれない。

味方が居ないことを知った谷豊はひとりで復讐を開始する。

裕福な英国人の豪邸に忍び込み金品を盗み取る。

義族的な行為と見られた為か、マレー人の配下も増え続けた。

やがて金満華僑の商店も標的にし、義族的な活動は広がりを見せ始める。

遂には金塊を積んだ鉄道車両の爆破など大規模な犯行にも及んでいた。

この頃、すでに谷豊は日本名を棄てハリマオの愛称で通していたようだ。

新しい部下は谷豊が日本人であることを知らなかったという。

マレー語は堪能だったが、その一方で、日本語では不自由する面もあったという。

谷豊は教育面を心配した両親の配慮で日本の学校に通っていた時期もあった。

しかし日本語レベルの違いから、イジメにあうなど良い思い出はなかったようだ。

言葉の面で苦労したことが、谷豊の心に陰を落としていたとも伝えられる。

「自分は何人なのか?」というアイデンティティーの問題。

【ハリマオを説得した男】

バンコクに駐在する田村大佐は、開戦を睨んでマレー人工作を命じられていた。

マレー人の協力が得られなければ、戦線を拡大できないことは火を見るより明らかだった。

そこで、ハリマオが日本人であれば協力を求めようと考え、マレーに潜入してハリマオを探し出すようある日本人に要請する。

田村大佐が白羽の矢を立てたのが、神本利男(かもと・としお)だった。

神本は警察官で、満州では甘粕正彦元憲兵大尉から絶大な信頼を得ていたという。

戦史的にはまったくの無名人物だが、異彩を放つ快男児である。

道教の満州総本山・千山無量観(せんざんむりょうかん)で3年間修行を積み、満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生であった。

葛月潭老師の門下となった日本人は神本の他に、大馬賊・小日向白朗しかいない。

密命を帯びてマレー半島を南下した神本は千山のネットワークを使い、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めた。

窃盗でタイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、神本はいきなり日本軍への協力を仰ぐ。

しかし…

「俺は日本人ではない」と谷豊はマレー語で叫んだという。

神本が日本人と断定して追及すると谷豊は複雑な胸中を語り始めた。

妹の殺害事件で日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われ、あげくの果ての「盗賊など恥晒した」と非難された現実を切々と訴えたという。

谷豊は日本という国から見捨てられたように感じていたのだ。

神本は説得を続ける。

「まもなく、この半島は戦場になる。おれはマラヤをマライ人に戻したいと思っている。その為に君の力を貸してくれないか」

『神本利男とマレーのハリマオ』(231頁)

更に、神本はマレー半島が白人に400年間支配されてきた歴史を説き、バラバラの反政府運動がすべて簡単に弾圧され、失敗してきた史実を語る。

そして、日本軍に現地人が協力してくれるなら、必ず英軍を駆逐して植民地支配を終わらせることが出来ると訴える。

「小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄だ…」

ハリマオ=谷豊は、神本の人間的な魅力に引き寄せられて説得に応じたという。

これまでに見たことのないタイプの日本人だったのだ。

またムスリムとなっていた谷豊は、コーラン第一章アル・ファティファ(開端章)を暗誦してみせた神本に驚愕したとも伝えられる。

この後、ハリマオ=谷豊は、敢然として反英活動に邁進する。

復讐のためにマレー半島に戻ってから10年近い歳月が経ち、谷豊は29歳になっていた。

妹をシナ人に惨殺された谷豊はマレー北部で大盗賊の頭目になっていた。

開戦前、マレー人の協力を求める帝国陸軍は谷豊に注目し、神本利男が説得に成功。

軍の密命を帯びた谷豊の大活躍が始まった。

【敵要塞とマタドール計画】

これまでの戦史では、軍の秘密指令を受けた谷豊の一党は、失敗続きで、帝国陸軍のハリマオ工作は不発に終わったとされていた。

しかし『神本利男とマレーのハリマオ』で初めて明かされた谷豊の行動は、まったく違うものだ。

谷豊の配下には盗賊くずれのマレー人しかいなかったと見られていた。

ハリマオ一党は数百人規模で「配下3,000人の大盗賊」は噂に過ぎなかったが、 実際はメンバー各自が様々な特殊技術を持つ集団であった。

例えばザカリアという男は、火薬のプロフェッショナルで爆破工作で力を存分に発揮していたという。

昭和16年秋…

戦争を予感していたのは英軍も同じだった。

開戦となった場合、イギリスが誇る東洋の最重要基地はシンガポールにあり、そこを目標にすることは明らかだった。

日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定。

マレー北部に要塞を建設し、陸軍の動きを止めることが急務でもあった。

そこで英軍はタイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設していた。

これがマレー戦記には必ず登場する「ジットラ・ライン」である。

その建設現場に現地人としてハリマオ一党が浸透していた…

マレー人労働者にサボタージュを呼びかけ、セメントなどの重要資材を湿地に投げ捨てる…

またトーチカの場所や地形などを調査し詳細な地図を陸軍に送ったという。

「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と英軍は豪語していたが、いざ戦端が開かれると、わが帝国陸軍は大激戦の末、僅か2日間でジットラ・ラインを突破している。

3ヵ月の予測がたった2日…

谷豊の建設遅延工作が実った結果でもあった。

長期の激戦が避けられたことで、何千人の陸軍兵士の貴重な命が救われたことか…

それは英軍兵にとっても同じ。

また、英軍は開戦に先立ってタイ南部に上陸する日本軍の兵団を水際で駆逐する「マタドール計画」を進めていた。

英軍の精鋭部隊が密かに国境を越え、迎え撃つ作戦だった。

その極秘作戦の情報を掴んだのもハリマオの配下だった。昭和16年7月に察知し、9月には作戦の概要が明かなっている。

結局、「マタドール計画」は不発に終わる。

【『F機関』藤原参謀との初対面】

大東亜戦争開戦2ヵ月前、バンコクにひとりの情報将校が赴任する。

のちに「F機関」を率いる藤原岩市参謀(開戦時少佐)。

「ハリマオ工作」の名付け親は藤原参謀だった。

藤原参謀は、ハリマオ一党の活動を高く評価し、特に谷豊という日本人に興味を抱いた。

開戦直前には、タイ南部で直接会う手筈を整えていたが尾行の危険性があったために止むなく断念している。

2人が対面を果たすのは、開戦のちょうど1ヵ月後だった。

場所はマレー北部の小さな村。

ハリマオ一党が新たに英軍陣地の後背に向かう直前の、偶然の出会いだった。

その時の模様を藤原参謀は著書『F機関』の中で、こう書き記している。

「なに谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」(略)私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に今日の今までついに会う機会がなかったのである」

「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。(略)

私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく

「谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった」

(『F機関』176頁)

余りに遜った態度に藤原参謀は驚き、そして、マレー人になりきった過去の境涯をしのんで、いじらしく感じたという。

藤原参謀がダム破壊工作の成功を称えると谷豊はこう答えた。

「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です」

「この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」

これに対し藤原参謀は更に労いの言葉をかける。

「君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」

というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら

「有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」

としみじみ述懐した。

(前掲書177頁)

2人が初対面した時、谷豊はすでにマラリアに冒されていた。

【最終目的地シンガポールへ】

わが日本軍が快進撃を続ける一方で、谷豊の病状は悪化していた。

初めての対面から約1週間後、藤原参謀の元に「谷豊がマラリアを再発し重篤だ」という報せが届く。

そして谷豊と行動を共にしている神本利男に対し、早急にジョホールバルの陸軍病院に移すよう連絡した。

「一人として大切でない部下はいない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった」

「敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」

(同247頁)

時は1月14日。

シンガポール陥落まであと1ヵ月…

ジョホールバルはマレーシアの最南端の大都市で、海のすぐ向こうがシンガポール島。

神本利男は担架に谷豊を乗せて運び、陸軍病院に運び込んだ。

その直前、神本は谷豊を抱き起こしてシンガポールの町の灯りを見せた。

「おれのテリトリーはマレー半島だから、シンガポールは関係なしか…」

そう谷豊は呟いたという。

ハリマオ一党の最終目的は、日本軍をシンガポールに進めることだった。

谷豊は自らに課せられた使命を無事、終えようとしていた。

【ハリマオ、白い布とともに消える…】

「私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った」

藤原参謀と谷豊の再会は、シンガポールの兵站病院の一室だった。

陥落から数日のことである。

その前に藤原参謀は軍政監部の馬奈木少将と直談判し、谷豊を軍政監部の一員として起用することを要請していた。

見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは

「充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません」

と謙きょにわびた。

私は

「いやいや余り無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」

というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。

両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。

私は更に

「谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」

と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ

「私が!谷が!日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」

と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った

(前掲書269頁)

官吏とは今の国家公務員に相当する。

盗賊として日本人からも白眼視されていた谷豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだった。

そして、この日が2人の終世の別れとなった。

昭和17年3月17日。

ハリマオとして名を馳せた谷豊は力尽きた。
享年30。

臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったという。

それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものであった。

谷豊の棺は部下たちに担がれ病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬された…

【英霊となったハリマオ】

その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていた。

そこで訃報を受け取ったのだ…

「北部マライの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に返った。彼は私の厳命を遵守して、彼は勿論、その部下も私腹を肥やす一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった…」

藤原参謀は直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、諒承を得る。

それによって谷豊は英霊として靖国神社に祭られることが決まったという。

盗賊の頭目となった頃、谷豊は勘当同然となり、日本に戻ったままの家族とは音信不通になっていた。

肉親を捨て祖国を捨て去っていた。

だが戦乱によって谷豊はごく短い間にすべてを取り戻し、そして英霊となった。

開戦の1ヵ月前、谷豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いている。

その文面は、たどたどしいカタカナで綴られていたという。

「お母さん。

豊の長い間の不幸をお許し下さい。

豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。

お母さん!

日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。

豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。

お母さん喜んで下さい。

豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。

豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。

生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。

お母さん!

豊が死ぬ前にたった一言!

いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい

お母さん!

どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。

そしてお母さん!

長く長くお達者にお暮らし下さい」



(あれ?下記👇の文章は、違う方の話のようですね…。混ざっちゃった? 🐧💦)

同時に内部抗争も激化し昭和22年7月、テロリストに暗殺される。

厦門(アモイ)で初めて皇軍と接触してから6年…

その間、アウンサンは全力疾走を続け、凶弾に倒れた。

享年32。

悲劇的な最期を遂げた7月19日は「殉難者の日」として今もビルマの暦に刻まれている。

もしアウンサンが国家の主人公であり続けたならば、我が国とビルマの戦後史もまた異なったものになっていた筈だった。

国父とされる将軍は終戦間際に牙を剥けたが終世、南機関員には義理を感じていたようだ。

終戦後、英軍は見せしめの為にビルマ戦線に関わった旧日本軍人を相次いで連行。

鈴木敬司少将も“戦犯”容疑でラングーン刑務所に収監されたが、アウンサンらは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し釈放させることに成功した。

南機関に対する「三十人志士」の思い入れは共通で中心メンバーだったネウィンは、クーデター後の昭和41年に鈴木少将を招待。

さらに56年にはビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」勲章を授与し偉業を称えた。

(『アジアに生きる大東亜戦争』より)

勲章が贈られた7人全員が南機関の関係者。

既に他界していた鈴木少将に替わって未亡人が式典に参列したが、その際、夫人は書状を携えていた。

それは、昭和17年に鈴木大佐(当時)がビルマを去る時に、アウンサンらから手渡された感謝状だった。

(『アジアに生きる大東亜戦争』より)

感謝状には鈴木大佐がビルマ兵を抱き上げ鉄の鎖を解くイラストが添えられている。

そして文面には、こう記されていた。

「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍は真の愛情をもってビルマ独立義勇軍の兵士全員を教え全員をかばい、全員のことに心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。今日の世界で確固とした独立を自らのものにするためには、ビルマ独立軍のような地上軍だけに頼るわけにはいかない。雷将軍は、かくてビルマ海軍の創設にも着手したのである」

「ビルマのためにこのような骨折りをした雷将軍は、いまや日本に帰らんとしている。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末永く懐かしむ。将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶことはない」



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