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神奈川の当事者運動を振り返って①

この原稿は渋谷が2022年4月から2024年3月まで、一般社団法人神奈川人権センターの「人権センターニュース」に連載したものです。

神奈川の障害当事者運動の歴史をテーマに原稿を書いてほしいというご依頼を受けてかなりの時間が過ぎてしまいました。お引き受けしたものの障害当事者運動は障害種別によっても運動の在り方によっても理念によっても多様であり、現在では資料も少なく全体像を浮かび上がらせることは私の力ではデキそうもありません。
私自身脳性マヒの当事者であることから脳性マヒ者の当事者運動、特に「青い芝の会」神奈川県連合会を中心に振り返ってみたいと思います。
 
「青い芝の会」神奈川県連合会
 幸い同会機関紙「あゆみ」合冊本が手元にありますので、それを資料としたいと思います。「あゆみ」第1号発行は1965年11月1日です。
前支部長の小山正義さんが「発行に寄せて」と題して《 近年、作家の水上勉氏が拝啓総理大臣殿、を書かれてからは政府も今さらの如く吃驚し注目された様に見受けられましたが、それですら児童のことでしかなく重度の障害と斗って、すでに成人となった脳性マヒを中心とした、何万かの重度障害者は、相変わらず無視され続けて居ります、これらの事を啓蒙する目的と仲間の親睦、社会的知識を深める為に、この「あゆみ」が発刊された事は大変喜ばしいことであります。
これからはこの機関紙を利用され会員の皆様の悩みや苦しい事、悲しい事また楽しい事嬉しい事などこの「あゆみ」を通して、社会に訴えて行きたいと思います。このあゆみの歩みを止めないよう、皆様一人一人の力で前進させて下さい。 》と寄稿されています。
当時の神奈川「青い芝の会」が「重度」とされ外出もできなかった仲間たちとの繋がりと脳性マヒ者の状況を広く社会に訴えることに重きを置いていたことが見て取れます。
また現在のグループホームのような、障害者が地域で生きるための小規模な施設の設立を求める意見も一部にはあったようです。
神奈川「青い芝の会」発足年月日についてはいろいろ調べてみたのですが、確認はできませんでした。同会の機関誌「あゆみ」第一号の発行が1965年11月1日ですので、少なくともそこまでは遡れることになります。
 
運動の転換点となる「事件」
このような「青い芝の会」の運動の在り方を大きく転換させたのが1970年5月、横浜市金沢区で起きた「障害児殺し」でした。介護に疲れた母親が脳性マヒだった娘を殺してしまうという事件でした。当時、母親への同情が圧倒的であり地元の町内会や父母の会が母親の減刑を求める署名活動を行いました。この事件を契機として、神奈川「青い芝の会」の運動は大きく転換します。
障害を理由に殺した母親の罪が軽くなるとすれば、我々の命はどうなるのか。という主張を展開し障害福祉担当行政や県社会福祉協議会、或いは親の会等と激しい論争を展開しました。またこの事件では検察当局が母親を起訴するかどうかの判断にあたって、全国の障害児者施設の件数を調査していたようです。これに対しても神奈川「青い芝の会」は、それは結局弁護側のやることであって検察が起訴するかどうかの判断に用いることはおかしいと強く主張しています。
 
「若い母親にムチを打ったのは一体だれなんだ」
一般に、或いは多くの福祉関係者、当事者の間でこの運動は、障害を理由に娘を殺した母親への怒りとして認識されていると思います。それは確かにそうなのですが、資料をよく読んでみると「青い芝の会」の主張の別の側面が浮かび上がってきます。
横田弘さんの文章を引用します。
《障害者(児)を持った家庭がどれだけ世間から白い眼で見られるか。障害者(児)を持ったと云う、ただそれだけでその家は罪悪とされる。そんな事実を私たちは永い間、身をもって経験し続けているのだ。
若い母親にムチを打ったのは一体だれなんだ。
意見書にも書かれてある通り私達には加害者の母親を責める気など毛頭ありはしない。むしろ、彼女こそもっとも哀れな被害者である。とさえ思っているのだ。
事件が起きてから減刑運動なんか始める。そして、それがあたかも善いことであるかの如くふるまう。なぜその前に母子が安らかな生活を送れるような暖かい理解がなされなかったのか。私達が問題としているのは、そうした社会の恐ろしいエゴなのだ。》 
 
これ以降、70年代を通して「青い芝の会」の運動は優生保護法告発、養護学校義務化反対、映画「さよならCP」上映会、「川崎バス闘争」等の形で全国に大きく展開していきます。
(続く)


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