歯車合わせ。(人狼)

(まえがき)
確か前回まえがきなんてものを書いた気がするが、今回書いていたら「これあとがきだろ」となってしまったので特にいう事がない。
要素取りについてと、そこから言語化に至るまでが主な内容でしょうか。

強いて言えば、色々言いたいことをまとめていたら微妙にテーマの異なるものになってしまったので、いくつかの段に分けて投稿するというぐらい。
ちなみに目次は使い方が分からないので使わない。以下本文。


・要素の「取れ方」(1)
そもそも要素って何?何を要素として取るのが正しいの?と思う方がいるかも知れないが、それはどうでも良い。
そんなことは置いといても、要素を上手く取れたと思う時と、そうでない時があるだろうと思う。まずはその違いについてを語っていく。
要素を上手く取れた時というのは、私の経験上「端的にまとまっている」ということが多い。これは、単に文章が短いという意味であったり、文章としては長いが、文章それぞれのつながりが驚くほど明瞭という意味であったりする。それらは理解するのがとても簡単で、分かりやすく書き手の考えが〝圧縮〟されているものだ。
一方、あんまり上手く取れていない時というのは、上手く取れている時の反対で、まとまりがない。村と狼の要素が両方あってよく分からない……とか、あるいは、要素はいっぱい取れているが、どれも単発で終わってしまう(要素同士で結びつかない)などである。こちらは、言ってしまえば〝羅列〟のていを取っていると思う。
ということで、上手く取れている時が〝圧縮〟で、ダメな時が〝羅列〟である。一応言っておくと、この二つの語彙は「びっくり語」である。こう表現するのがいちばんしっくり来たので使っていく。


・要素の「取れ方」(2)
これは前回も言っていることだが、私たちは「誰が人狼なのか見つけるための感覚(長いので以下:センサー)を用いて人狼を探している。
そういうセンサーを使っているから、何か発言を見て引っかかった時点で「これは人狼である」または「これは村人である」といった結論(感想と言い換えても良い)は、自動的に肉付けされている。この感覚、というのが、いわゆる直感だろう。
圧縮できる時というのは、上の感覚が生きている時だ。結論が自動的に肉付けされている。自動で結論があるならば、自分が何故そう感じたのか、という自分の感性について省みれば、言語化はいくらでも可能だ。
結論も、その筋道も、どちらも自分の中に最初から備わっているのだから。この時、思考したり、文章にしたりする過程は半自動的なものだと言える。
一方、そういったセンサーが全く動かないログ、筆が進まないとか、相性が悪いと思った村にも、一度が遭遇した経験があるだろう。そういった場合には「頑張って」「推理しよう」と思うだろう。だが、それは実のところ危険信号に他ならない。圧縮できる時は半自動だと言ったが、こちらは頑張ってやろうと意図している時点で、自動ではないからだ。言うなれば、手動で考察をしようとしている。それが、たいていロクな結果を生まない。

・要素の「取れ方」(3)
発言には精査に値する発言と、そうではない発言の二種類がある。それを区別して〝抽出〟するという作業が必要だ。
そして、要素取りが上手く行く時の抽出は、上記の通りで自動的にやっている。センサーに引っかかって、自動的に結論まで出ているならば、それが既に発言の精査を終えていると言い換えられる。また、センサーに引っかかった時点で、精査に値するかの区別も、できている。
それで、これがどうして圧縮できるのか、という疑問もあるかも知れないが、これは至極簡単な理由であろうと思う。「自分の感性に引っかかったもの」を羅列しているからだ。よく推理の軸、といった表現を聞くことがあると思うが、自分の感性というのはまんま推理の軸である。だから、たいていの場合はどこかで羅列したものがつながっていく。
要素取りが上手く行かない時というのは、この抽出が上手くできていない。何が精査に値する発言なのか、ということを区別しない。端から端まで発言をチェックしては、何か結論を出せるはずだと腐心する。


・羅列の「止め方」
結論からいうと「もっと戦術面から考える」という一点に集約される。
何故なら、羅列状態に陥るのは、発言の解釈の幅が広過ぎるからだ。本来、無数にある解釈のうち、もっとも正しいと思われるものは自然と分かっている。
分かりやすいのは、占い真偽などで言う所の「ここが信用取りに来てるから狼目」という発言だろうか。これは、あまりにテンプレ化された発言だ。そして、これを脳死で言う人間もいるだろう。しかし、そうでないと思える場合もある。
信用を取るのは当然、真占いでもやるし、狂人でもやったらダメということは断じてないので、字面だけ見ると全く論理的ではない。それでも、無数にある解釈のうち、それが正しいと判断して出たのがその言葉なのだ。(もっと言いようはある)
ただし、そういった解釈は例のセンサーが自動的にやっていることである。そして、羅列状態に陥る人はそのセンサーが動いていない。
そうなると無数の解釈の海に直接放り投げられてしまうので、どうしようもなくなってくる。だから解釈の幅をなくさなくてはならない。
だから戦術面から考えるということをする。戦術面とは具体的に何なのかと言うと、これは編成によって違えば、明確な正解がある話でもないので、これ以上掘り下げるのも難しいように感じる。
強いて言えば「明確な間違いならばあり得る」ということと、「発言の解釈の幅をなくす為に、また別の発言の解釈をする」ということはやめた方が良い。
明確な間違いならあるからこそ、発言だけから考えるよりも、解釈の幅が収まる。

・これ重要
圧縮は「言語化」から作業が始まるけど、羅列は「抽出」から作業が始まる(メモ段階で書いてあったものをそのまま抜粋)

・言葉の運用方法
どうも、言葉にすることを重要視し過ぎているのではないか、と感じることがある。言語「化」という言葉が示唆しているが、言葉には、言葉に加工する前のものが存在している。そして、この加工前のものを100%完璧に、言葉に加工しようとする。言葉が重要視され過ぎるのはそのためだ。言葉に対して「100%の表現でなくてはならない」という観念があるから。
結論を言うと、言葉の運用方法というのは「自らの直感の成り立ちを知る為」に使うべきものだろうと思う。
これはイラストを描くのと同じようなものである。
直感(描きたいキャラクター)の成り立ち(容姿設定)は確かに【文字通り】知っているが、【知っている本人でさえ実物を見たことはない】し、実際に描いてみたとしても【想像の100%が出力できるのではない】のだ。
100%の出力ができる訳ではないが、だからと言って頭の中だけにあるもののままで良いはずもない。


(あとがき)
確か夏頃に「暑過ぎるので秋になったらnote書く」とか言った記憶があります。実際そうなりましたね。これが有言実行というものです。
やっぱり内容を書き始めてからタイトルが決まりました。確か最初は……「思考・言語化は半自動的」とか仮に決めていました。
ただ言いたいこと並べていくとそれにテーマが収まらないので、どうしようかと考えた末、やはり考えすぎると「歯車が狂う」ということが言いたいんだよなあ、ということでこのタイトルに。
ところで、考えすぎると歯車が狂うというのは、タイトルを決める時にも言えるような気がします。やっぱりもう無題で良いんじゃないのか。
いえ、無題ではカッコよくないので今後もタイトルは用意しますが。
確か星狩り60村に参加する前に、圧縮・羅列・抽出っていう語彙はできあがっていたんですよね。ずっとストップしていた理由が「羅列するのがダメなのは良いけど、それどうやって改善すれば良いの?」という所。
これがもっと戦術面を見れば良いんだな、というのを60村を終えた辺りで気づいて……特に理由なく放置して今に至ります。

多分戦術から見るにもセンスは必要なんですが、「解釈の幅が狭まっている」ので、別に自分だけで考える必要はないっていうのが、便利なんじゃないかなあとか雑に思いますが。次回に書きたいのはこの辺の内容かしら。

次回(また4か月後とかか?)
ちょっとあとがきが長かったような気もします。ともかく、お疲れ様でした。


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