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【徳川家と吉良家、水をめぐる緊張関係】

忠臣蔵で敵役として名高い吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、領地だった愛知県西尾市吉良町では、私財で水害を防ぐ堤防「黄金堤(こがねづつみ)」を築くなどの名君と引き継がれています。

元建設省の竹村光太郎氏の著書「地形から読み解く日本の歴史」によると、赤穂浪士の討ち入りは、徳川幕府によって仕組まれた「事件」としています。

吉良家は元々は足利将軍家の分家であり、朝廷と徳川幕府の仲介役 の「高家」として名門のチカラを持っていました。

当時、吉良家から矢作川(やはぎがわ)の上流には、徳川家康の故郷である岡崎の松平家がありました。

2代将軍秀忠の時代に、矢作川沿岸工事により、矢作川の流れを西に変え、それまで矢作川の恩恵を受けていた吉良家では新田開発が行われず、ほとんど領地は拡大していません。

トドメを刺したのが、5代将軍綱吉の時代の「元禄赤穂事件」(忠臣蔵)であり、吉良家を公然と取り潰す機会だったとのことです。

松の廊下での刃傷沙汰で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が即日切腹されられた後、お家取り潰しになった赤穂浪士が集結した麹町は、江戸城から歩いて5分もかからない最も警戒が厳しい区域です。

普通なら怪しまれ捕まるところですので、幕府が潜伏させていたとのこと。

また、吉良家は討ち入りされやすい場所に移転させられました。
記録では、早朝に討ち入りが行われており、テレビドラマのように雪は降っていません。

吉良家は領地を没収され、赤穂浪士は「義士」となり、浅野家は事件の後に再興しました。

300年のときを経て、水害を防ぎ金色の稲穂が実ったことから名付けられた黄金堤は、満開の桜が散り始め、足下を桜色に染めようとしています。

#にしおじかん

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