2022/8/21

  ここ最近の音楽シーンでは、ボーカロイド界隈の人間が大衆的な人気を獲得している様子がうかがえますが、そこにはSNSの普及が大きくかかわっているのではないかと思いました。

  まず初めに、基本的にボーカロイド楽曲には昔から、素人さと、社会的弱者的な要素が含まれていると考えます。それはある程度ボーカロイド界隈に属していた人なら感じている部分があると思います。ボカロ曲は基本的にニコニコ動画に投稿されていて、ニコニコ動画というのはまあ公式でも言われてましたが、小規模コミュニティの場であるので当然多くの人は利用していないし、少し昔ではスマートフォンなどなく、動画を見るには家のパソコンを使用する必要があって、家族にも隠れながらコソコソと利用していたわけで、そりゃあ大衆的な人気などないわけです。加えて、現代ではSNSの影響力の拡大、スマートフォンの普及で多様性が認められるようになっていますが、それもごく最近の話であり、田舎などではなおさら大衆に従うことを強いられていて、人と違うことは悪いことであるとみなされていました。

  そんな中で、ニコニコ動画でボカロ曲を聴く人というのは、当然マイノリティであり、マイノリティであることはほとんどの場合周囲との差異に悩むことになります。そのようなコミュニティで共感を得て、人気を獲得したものとは、やはり自分たちの周囲との差異に対する苦悩であったり、ネガティブな感情を孕んだ楽曲だったように思えます。そして、このような楽曲が人気になりつつある状況で、周囲との違いに悩み苦しむ思春期の中学生たちがボーカロイド楽曲と出会うことによってボカロシーンに熱狂的にのめりこみ、結果としてボーカロイドが中高生に人気を博することになったのは必然であったように思えます。
  そんなわけで、ボカロ曲には常に社会的弱者、マイノリティのための楽曲だという属性が付随することになるわけです。

  続いて、ボカロ曲には素人性が付随するという話ですが、これは単純で、当時のボカロは大衆音楽のような普遍的なメッセージ性を持つ必要がなく、同人の世界ですから、作詞の技術もプロよりも劣るわけです。ただし、その素人性のおかげで、詩は直接的なメッセージを持ちやすく、似たような悩みを抱えている人にとってはそのメッセージを受け取りやすくなるわけです。(悩んでいる人は、考えにふけりがちなこともあって、作詞で濁されるメッセージの度合いと、解釈のレベルがちょうどあっていることも一つの要因かもしれませんね)

  さて、ここまででボーカロイド楽曲が社会的弱者や、周囲との差異に悩む人間に対して向けられた楽曲であること、加えて直接的なメッセージを持っているということを書きました。続いては、それがどのようにして大衆的な人気を博するのに至ったのかを書こうと思います。

 まあ、冒頭でも言った通り、これにはスマートフォンと、SNSの普及が大きくかかわってきていると考えています。まず、スマートフォンの普及によりインターネットへの接続が容易になり、動画投稿サイトへのアクセスが容易になったことで多くの人の目に留まりやすくなりました。これはあくまで障壁がなくなったようなもので、もっと大きな要因はSNSの普及にあります。
 SNSの普及によって、人は従来よりもとても多くの人に触れながら生きていきことになりました。これはよく「インターネットで多くの人とつながる」という風によく書かれますが、これは本当に大きな影響をもたらしています。これが今回の本題に関連する部分は大きく分けて2つで、ひとつは成功を多く目にする機会が増えたこと、もうひとつは多様性が認める風潮が作られたことです。
 前者は、SNSに触れている人間ならだれでもわかるでしょう。毎日、誰が拡散しているのかもわからないが、面白いことや、素晴らしい作品を目にする。あるいは、有名人の意外な一面など。これらは、才能ある人間を見つけ出すことに関してはとてもいい環境であります。しかし一方では、あたかも周りには才能のある人間があふれているように錯覚してしまうのです。そこで、自分にも何か秘められたものがあるのではないかという希望と、現実としてそんなに上手くいかないギャップにSNSに触れている多くの人が悩まされることになります。これはごく個人的な悩みであり、他者に共有するほど大それたものでもなく、普遍的なテーマというわけでもありません(現段階では)。この悩みは、初めに触れたマイノリティの苦悩とその形が似ています。このようにして、SNSの普及によって新たな悩みを抱える人間が増えているわけです。

続いて後者についてですが、飽きたので止めます。文章を書くのって意外にエネルギーがいる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?