見放されたメレヨン島

 メレヨン島=ウオレアイ環礁(かんしょう)――北緯七度・東経一四三度^――に関わる全ての人々に捧ぐ

ACT1 発端


「時代!」
 二〇二〇年(令和二年)。
 新型コロナウイルス、もしかしたら、私達のじっと耐える力が試されているのかもしれない。

連日の新型コロナウイルスの報道。すべての優先は健康第一であること。これ以上の感染が広がらないことを祈るのみです。こんな状況で多くの方が不安な日々を過ごして、皆様苦しいことには変わらない。

さて。
二〇二〇年は、終戦の一九四五年からちょうど七五年目を迎える。
 世間は新型コロナウイルスの影響で一部の方~例えば、派遣・パートなどいわゆる社会的弱者が首を切られること~。また在宅テレワークを余儀なくされる社会的背景などは約七五年前、メレヨン島=ウオレアイ環礁で起きたことと同じような気がしてならない。  一九四四年、グアム・サイパンが陥落し、メレヨン島=ウオレアイ環礁に、アメリカ軍からの攻撃な皆無になり、加えて、日本から食料供給を途絶える。では、兵隊達は何をしていたかと言えば、「何もしていなかった」「何もすることがなかった」という状態。また、それ以外にも、今に共通する点が、この南の小さな島=環礁で起きていたと感じる。

「歳月――」。
昭和四十年(一九六五年)生まれ五十五歳の私にとって、先の太平洋戦争(約三百万人が戦死)。昭和十六年(一九四一年)~昭和二十年(一九四五年)から戦後七十五年が経つ今、一体何を意味しているのだろうか?
それを考える一つのきっかけは「メレヨン島=ウオレアイ環礁」との出逢いからだった。

「軌跡――」。
太平洋戦争中、日本が「メレヨン島」と呼んだ島々は、現在、ミクロネシア連邦・ウオレアイ環礁と呼ばれている。
当時、この環礁には、島民約五百人が男女とも上半身姿で暮らし、自給自足の質素な暮らしを営んでいた。
一九四一年(昭和十六年)メレヨン島の本島・フララップ島に滑走路の建設が始まる。兵士にとって「太平洋の防人」として守備に着く準備が整った。
メレヨン島に部隊本隊が上陸したのは、一九四四年(昭和十九年)四月。その三ヶ月後、七月・サイパン、八月・グアムが玉砕。そのため、それらの島々の南に位置するメレヨン島への食糧補給は、ほぼ完全に止まった。

一方で――。
サイパン、グアムを陥落させたアメリカ軍は、日本本土へと、攻撃のポイントを定めた。そのため「メレヨン島」への攻撃は、無に等しくなった。
日本軍からの食糧供給は途絶える。
アメリカ軍からの攻撃は、皆無になる。
いわば孤立無援の島、見放された島となった。
 とは言え、兵士に食料は必要だ。それ故に彼らは、僅かな食糧での現地自活生活を余儀なくされる。一日の主食・米の支給は百グラムになり、飢餓はその極に達した。さらに風土病のデング熱、脚気などに加えてアミーバ赤痢等の併発により、多くの犠牲者が出る。
 約七千人の将兵のうち、約五千人が餓死・病死した。
兵士の生還率は、階級の高さに比例した。

一九六五年(昭和四十年)、メレヨン島からの生還者と遺族で構成される「全国メレヨン会」が発足。それ以降、慰霊、遺骨収集、島民との交流などの活動を行っている。

日本軍からもアメリカ軍からも見放されたメレヨン島。
私は「メレヨン島」の幾人かの生還者に訊ねた。

「生と死を分けたものは一体何か?」と――。

石野 晋(すすむ)  「運やな」
大塚 君夫(きみお) 「上司に恵まれた」
沖中 慶二(けいじ) 「木登りがうまかったから」
柿本 鳳二(たねじ) 「両親が健康な体で私を生んでくれたこと」
北村 勝三(かつぞう)  昭和二十二年八月十五日 自決
平野 晴(はる)愛(えい) 「・・・」。貫き通す無言。
渡辺 義(ぎ)尊(そん) 「椰子の木の下のキノコと海のウニを食べていた」

(あいうえお順)

 

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