1985年にLINEのある世界線

に、いる🌸🐯(つきあってる)

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 築八年のマンションのアルミドアに鍵を差し入れた瞬間、スーツの内ポケットが微振動する。ヴヴ、という短い音は一度きりで及川はその通知を知らせる相手が誰なのか確認するまでもなく分かっていた。
「た、だいま……と」
 ポストに無尽蔵に放り込まれている弁当屋のチラシやポルノビデオのチラシと共に公共料金等の封書を一才合切引き抜くと、ややくすんだコードバンを脱ぎ待つ人間の居ない部屋で及川はまず灯りを点ける。
 リビングテーブルにチラシ類を一旦置き、スーツを脱いでネクタイを緩めるとようやく息が深く吸えた気がした。トランクスのままワイシャツのボタンを一つずつ外すとジャケットから携帯電話を取り出し片手で無料通話アプリを開く。薄いブルーの背景に届いたメッセージは、やはり恋人の桜庭からの物だった。

「なになに……吉原さんが便所から出てくるの待ってるんだけどもう十五分経つ。絶対ウンコしてる……アハハ、なんだそりゃ。ドア叩いて名前呼んでやれよ……と」
 及川は慣れた手つきで返事を打つと、またそれに対して桜庭からすぐさま可愛らしいうさぎのスタンプが送られてくる。そうして続け様にうさぎが投げキッスを飛ばしているスタンプが届けば及川はおつかれさん。とだけ送り浴室へ足を向けた。

 及川は自分が存外寂しがりだと気づいたのは最近の事だったが、こと桜庭は及川に寂しいという感情を与える暇を全く与えない男だった。
 朝晩のメッセージは勿論の事、帰宅時や食事の時は画像付きでマメに及川へ連絡を入れてくる。その辺は元恋人とは大違いで、麻生は平気で何日も返事を忘れているし酷い時など返事をしたかどうかすらも覚えていない始末なのだ。
 こればかりは性質に寄る所が大きい為仕方ない事かもしれないが、及川も強く言い出さなかったのもいけなかったと今ならば言える。

 シャワーを浴び、リビングに戻ると及川はテレビを点けて缶ビールを冷蔵庫から取り出してまずは呷った。
 洗い髪を拭いながら帰り際に買い求めた惣菜を摘み溜まった手紙に目を通すも、目ぼしいものはこれといって無くチラシ類をゴミ箱へ片付ければ、再び携帯電話を手にしてやはり通話アプリを開いた。メッセージは桜庭以外に同課の板野からも届いていて、急ぎの用かと焦るも[この女優さん、オイさんに似てません?]と写真付きでどうという事のない内容が届いていたので流石に無視した。
 桜庭と及川は同じマル暴畑だが、班が異なる為顔を合わせない日も勿論ある。特に最近では桜庭は上司の吉原と新宿に詰めており、三日は顔を見ていなかった。しかし桜庭は時間の合間を縫っては及川に小まめに連絡を寄越し、及川の様子を伺いつつ自身の報告をいつも面白おかしく届けてくれるのだ。
 及川は桜庭が好きだ。優しく頼りになるし何より男前だ。桜庭の様な男こそが男惚れされると言っても過言ではないと思っており、彼がいてくれるお陰で以前より遥かに落ち着いた日々を送れている事には並々ならぬ感謝をしている。

 外国製のソファに横たわり、煙草を燻らせながら及川は携帯電話に視線を落とす。相変わらず桜庭からは[今帰宅途中]とか[晩飯、牛丼にする]などのメッセージが送られてきており、それに返信しながら興味のないニュースを視界にとりあえず入れていた。
 明日は久しぶりの非番で、昼まで惰眠を貪る予定なのだ。それから溜まったクリーニングの引き取りと日用品の買い物、時間があれば新しい靴を見に行きたいとも思っている。そろそろ瞼が落ちかけた瞬間、握られ胸の上へと置き去りにされていた携帯電話が長いバイブレーションを伴ってくぐもった音を届けた。

「……何?」
 笑い声と共に及川は通話ボタンを押す。背後からは街の音がざわめいており、その喧騒を掻き分けて恋人の声が耳に振ってきた。
「もしもーし、お疲れさん。純の声が聞きたくて電話した」
「吉原さん、便所出たか?」
「アッハハ! しっかり二十分は待たされたね。流石に痺れ切らせて呼びかけようとしたら板野が飛び込んできて、吉原さぁーん! 俺もウンコしたいから出てくださいよって叫ぶからもう大笑いでさぁ」
 歩きながら喋っているせいか、桜庭の声が弾んで聞こてくる。偶に途切れる音すら何故か心地よく、及川はソファに寝転がりながら足を組む。部屋着のスウェットにTシャツというラフな格好に体が喜んでいる気がした。
「アイツさっき俺に、オイさんに似てませんか? って女優の画像送ってきたから無視しといた」
「うん。無視していいな」
 高架の下を潜っているのか、一瞬車の音が大きく響く。そうしてしばらく他愛のない会話を楽しんでいると、桜庭が軽く鼻を啜った。

「純、明日休みだよな?」
「うん。久しぶりの非番前だぜ……風呂も入ったし後は寝るだけって最高だな」
「え? もう風呂入ったのかよ……なぁ、写真送って! 自撮り」
「はぁ? バッカ。嫌だよ……恥ずかしい」
「えええ、頼むよ純! この通り……お願い純サマぁ!」
 電話の向こうで桜庭が両手を合わせて拝んでいるのが見える気がして、及川はしょうがねぇなぁ。と溢すと一度通話を終わらせカメラを起動させるとそのままの姿勢で自撮りを行った。別にとりつくろう事もないだろう、と加工の一つもせずに桜庭へ送信するとすぐさま再び電話が架かってきた。

「やばい……」
「な、何がだよ」
「リラックスしてる純、最高にヌける」
「ドタコ! ズリネタにしたらマジで別れるからな」
 すみません!と電話の向こうで桜庭の上擦った声が聞こえ、及川は天井を仰いで思わず笑い声を上げた。そうしてくつくつと喉を鳴らすと体を起こし温くなったビールを飲み干した。
「なぁ、正道」
「ん? どうした」
「……もう、家着いたか」
「いや、まただよ」
 とくん、とくん、と一定のリズムで静かに音を奏でる心臓は昔に比べると随分凪いでいる。及川は目を瞑り、恋人を思った。きっと、彼ならば自分の願いを叶えてくれる気がする。

「……会いたい」
 思いの外素直に口から溢れた言葉は及川の胸を温かくさせた。それはきっと桜庭にしてもそうで、電話の向こうで息を詰める気配がする。そうして突如ぱっと花が咲いた様な明るい声が響き渡った。
「俺も……純に会いたい! 今から会いに行ってもいいか?」
「え、いや、その、アレだ。無理しなくても……」
「バカ、無理なんて言うなよ。嬉しいんだよ……純がそんな事言ってくれるなんて」
 桜庭の人なつこい顔が脳裡をよぎれば、及川は自然と顔を綻ばせた。やはり、桜庭は及川を寂しがらせる隙なんて与えてくれそうにない。
「今から三十……いや、十五分でいく! ビール買っていくよ。他に何かいるか?」
 今桜庭が何処にいるかは分からないが恐らくアパートのある中野近くだったのではなかろうか。それでも二つ返事で飛んできてくれる恋人の気持ちを嬉しく思えば及川は純粋に喜び「何もいらないから早く来てくれ」とまたひとつ、素直になれるのだった。