見出し画像

加納と麻生【1】

 色に例えるなら新緑だ。そんな事を麻生は思った。

「どうぞ、おかけください。麻生さん」
「はい。今日はお忙しい所を無理聞いてもらって……」
 麻生龍太郎はばつが悪そうに後ろ頭を掻くと、勧められた椅子に腰掛ける。麻生が着席したのを見届けると、すぐさま冷たい麦茶が出された。
「いいえ、電話よりもこうして膝を突き合わせた方が早い場合もありますから」
 麻生の前に腰掛けた美貌の男は柔らかく微笑む。それから顔に掛かる横髪を耳にひっかけると、分厚いファイルを開き付箋の付いた項目をピックアップして見せた。
「ええ、それはそうおっしゃって頂けると助かります。加納さん」
 麻生は麦茶をひと口飲むと、自身も幾つかの封筒を卓上へ出した。

 加納検事とはこれまでも面識があり、その穏やかで物腰の柔らかな所を麻生は気に入っていた。勿論、ただ優しさだけでなく加納の言葉にはいつも力がある。今回も現在進行形で焦げついている、大手会社役員の連続殺人事件の担当が加納だと知り、麻生は随分心強く感じていた。
 今日もこうして多忙な合間に時間を作ってくれるのだから、何とも頭が下がる。
 けれども、麻生がわざわざ検察庁まで足を運んだ事には理由があった。勿論仕事は第一だが、ひとつ。どうしても確認しておきたい事があったからだ。

「……それでは、後はこちらで処理しておきますので、引き続き何かありましたらすぐにご連絡ください。私共も独自で調査中ですが、なんせこういった企業絡みは尻尾切りはできても、なかなか本体に辿り着く事が難しいですから」
 いつもながらに加納は傍に置いた法のあり方を確認しながら話を進める。尤も、よくある様な案件は全て頭の中に入っているのか、六法全書を開く時間はものの数分だ。胸元を飾る秋霜烈日の中央に燃える赤色が、今日は一際輝いて見える。
 加納は優秀な検事だ。それはこれまでもこれからも変わらないだろう。けれども、純粋に法の元に生きる男を畏怖できたらよかった、と麻生は思う。
 否、何も不純な行為に身を賭している訳ではないのだし、もっと言えば麻生には関係のない事だ。それでも拳を握りしめるまでの動揺を感じれば、麻生は黙ってはいられなかった。

 先週の土曜、二十一時半。新宿歌舞伎町裏のホテル街で及川を見た。麻生は懇意にしている小料理屋に向かう途中で、新宿署に勤める同期と軽く飲み、タクシーを探そうとした矢先の事であった。
 一瞬、足が止まった。人違いかとも思ったが、及川の背中を見間違える筈がない。細身の長身は見栄えがよく、特に剣道家だった分背筋がいつも美しく伸びている。
 麻生は暫く雑踏の中で及川の背を追いかけた。しかしもう一人の自分が何をしている、と警笛を鳴らしているのも事実だ。
 及川だって人の子で、更に独身とくればどんな恋愛をしたって倫理に反さなければ自由だと思う。それだというのに、麻生はさも及川に新しい男ができる事が認められないのか、無言で彼の後を追った。
 そうしてひとしきり立ち回った後、及川は隣を歩く男の腰に手をかけた。背は及川より少し低いが、モデルの様な等身の高さに思わず息を飲む。
 新しい恋人ができたなんて、聞いてなかった。麻生は胸のうちで嫉妬の炎が燃える音を確かに聞いた。勝手だと分かっているのに、止められない心は一体何だというのか。
 及川とはもうとうに道を違えた間柄だというのに、それでも時折甘えてしまう己の弱さと甘さが嫌になる。結局、自分こそが及川離れができていないのだ。
 しかしそう思った矢先、人混みの中で麻生の目は確かに及川の隣に佇む男の顔を、見た。

「加納さん、よろしければ近々お食事でもどうですか。いえ、気軽に飲めるいい店がありまして」
 荷物を片付けながら、麻生は周囲に気を配りトーンを少し落として話した。
 最悪断られる事も予想の範囲内だし、流石にそう簡単に願いが叶うなどとも思っていない。しかし麻生の心中察してか加納は一瞬手を止めると、麻生に向き直った。それからぱっ、と花が咲いた様に微笑む。
「それは良いですね。是非、ご相伴に預かりたい。麻生さんのご予定が合うのでしたら、すぐにでも」
 これには麻生も面食らったが、加納の心がわからない以上、下手な事は言わないのが吉だろう。代わりに目一杯の笑顔で加納へ笑いかけた。
「じゃあ、明日の二十一時に合同庁舎の一階ロビーで」