寺大&寺須【連載1】

突然の連載。

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 ツイてない。今日の自分を語るのにこれ程適切な言葉は恐らく他にないだろう。寺島は今にも泣き出しそうな曇天を本庁六階の窓から睨みつけてやると、苦虫を噛み潰した思いで煙草を咥えた。
 ジュースを買おうにも小銭は無いし、千円札を両替に行けば両替機が故障ときている。他にも細かなアクシデントを上げればきりがなく、そもそも今朝のニュースで見た星占いでは二位という好成績ではなかったのか。もうあの占いは二度と信用するものかと心に決めるも、そもそもの発端は目ざまし時計が止まっていた事から始まっていた様な気がする。否、もっと言えばその時計一つで同居人の恋人との喧嘩から不運は始まっていたのだ。

「純一が悪いんじゃないか。ちゃんと俺は声掛けたよ」
「あのなぁ! 起き上がってなきゃ起きたって言わねぇの」
「なにそれ。俺は純一のお母さんじゃないんだけど」
 元来寺島は朝に弱い質ではなく、いつも恋人の大輔よりも先に起床して二人分のコーヒーを淹れてパンを焼いておくのだが今朝に限っては珍しく寝坊したのだ。しかも三十分も。
 昨晩はゆったりと二人で早めの風呂に浸かり、買い置きのドイツビールを開けてサラミと生ハムをツマミにちょっとした酒盛りをしたのだ。寺島が早めに帰宅できた事で、当初は大輔が外食にでも行こうかと提案してくれたがあれこれ店を思案している内に億劫になって結局家でゆっくりする事にした。しかしあれしきの酒量が翌日に響くとも考えられないし、寺島はすべては鳴らなかった目ざまし時計のせいにして一旦行き場のない怒りを腹に収めて家を飛び出した。
 時間に余裕が無いのは一日のスタートで躓いたも同然で、寺島は十一月ももう半ばだというのに額に汗を浮かべながら桜田門へと飛び込んだ。それが八時半の会議三分前の事。
 結果として日頃の勤務態度から誰かに咎められる事もなかったし、上司の須崎なんかは逆に「具合でも悪いのか?」と心配してくれた程だった。けれども寺島は出掛けに大輔に思わず投げつけてしまった言葉がどうしても頭にこべりついて離れず、気がつけば恋人の哀しそうな顔が脳裏に過った。言葉は刃物とはよく言ったもので、一度声に出してしまえば消しゴムで簡単に消える事はないし恐らく傷つけたであろう大輔の痛みも無くなったりはしないのだ。

「……アイツの好きなエクレア買ってくか、それとも」
 煙草に火をつけようにもライターのガスまで切れている始末で、このまま行けば今日が命日なのではないかと寺島は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。すると、耳に馴染んだ声に自分の名前を呼ばれ、瞬間ぱっと顔が自然綻ぶ。
「寺島、どうした。今朝から調子悪そうだが」
「……須崎さん。すみません、みっともない所を」
「いや、人間誰しも寝坊くらいあるから気にするな。俺も若い頃は何度嫁にどやされたか知れない」
「へぇ、須崎さんでも寝坊ってするんですか?」
「お前! 人を年寄りだって言いたいのかよ」
「そんな事言ってませんてばぁ!」
「……ったく、ん? 火ぃ無いのか」
 休憩室にジュースでも買いに来たのか、須崎はやや疲れた顔をしていたが寺島の前では明るく振る舞った。その気遣いが分かるからこそ寺島は胸を熱くさせると、ゆるく口角を上げる。
「須崎さん……有人会の取り調べ、何か進展ありましたか」
「まぁな。と言いたい所だが良い話はない。ほら……こっち向け。火つけてやる」
 寺島に随分と咥えられていた煙草は少し湿っていたが素直に須崎に顔を向けると火を貰う。本当は煙草なんてどちらでもよかったが、根が真面目な男の優しさを無碍にしたくなくて寺島は深く肺に吸い込む。
「須崎さん、家帰ってるんスか?」
「ん。どうしてだ? ……ああ、帰ってるさ。二日前着替えに一度」
 須崎はまるで時刻を知らせる国営放送の様に淡々と告げると気に入りのジュースのタブを落とす。一口含むと冷たかったのか少し咽せた。
「貴方が体壊したらどうするんですか。俺に……以前頼ってくれるって約束しましたよね?」
 須崎と寺島は共に警部補で立場的には同等だが、寺島は須崎の元で鍛えられた須崎軍団員だ。年上という事もあってか、今でも自分は須崎に守られているのだと寺島は感じていた。そうしてそれが歯痒くもあり、時として須崎に対して憎しみに近い感情が吹き出してしまう事すらあるのだ。寺島自身もそれを行き過ぎた愛情の吐口だと捉えている。
「頼ってるさ。現に今現場での指揮はほぼお前に任せっきりだろ。須崎さんは暇でいいですね、なんてこの間七係の奴に嫌味言われたよ」
「……誰ですか。殴ってやる」
「オイオイ、流石の俺でも冗談だと分かってるさ。そうだな……でもお前の言う通り今日は帰るとしよう。どうだ、寺島偶には。奢るぞ?」
 寺島はすみません、と苦笑いを浮かべたが内心は穏やかではなかった。自分がこと須崎の事になると見境がなくなる事は分かっている。それでも特に今日みたいな日はいけない。いつのまにか雨粒が窓ガラスを叩き始めており、時計を見れば定刻はとっくに過ぎている。昼休みに電話を家に架けたが非番の筈の恋人は不在で、結局エクレアも買ってない。

「俺はそろそろ出るが、寺島は……」
 須崎は飲み終えた空き缶を屑籠に放り投げると席を立った。瞬間、はじかれた様に顔を上げた寺島の気持ちはこの僅か三秒足らずの間に定まってしまった。
「……行きます。今日、駅前の居酒屋でビール半額なんスよ」
「お! そうか。じゃあ……一杯だけ付き合えよ」
「勿論です」
 須崎は寺島に恋人がいる事も、それが同性だという事も知っている。そうして、寺島が須崎自身に答えの未だ出ない恋心を腐らせている事も。
 寺島は大輔の事をふいに脳裡に思い描く。友人の多い気の良い奴だから、おそらく何人かで飲みに出かけたのだろう、きっとそうだ。
 だから大丈夫。帰ったらいつも通りお帰りと笑ってくれる筈だから。

 だから……大丈夫だ。