夏の熱
◇大学時代、寮生の及川とモブ
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「悪いわねぇ、麻生君。いつもお願いしちゃって」
「いえ、ついでがありますから。ええと、醤油と味噌と……洗剤でよかったですかね」
寮母の里中さんは、出戻った娘が連れて帰ってきたらしい二歳になる孫の面倒を夏休みの間頼まれていて、買い物に出られない日はああして誰かしらに代行を頼んでいた。
昨日は僕が、その前は一年の野球部の子だったかが近くの商店に出かけている。しかし今用事を申し付けられたのはこの寮生ではなかった。
「叔母さん、コイツ見ての通り力ばっかりはあるんで、遠慮しなくて良いよ」
「あら及川君。でも、悪いわ。麻生君は及川君のところへ遊びに来たんでしょう?」
買い物メモを里中さんが書き付けていると、二階から一つ上の先輩、及川さんが降りてきた。休み中という事で、いつもより気怠そうに髪をかきあげている。ハーフパンツから覗く細い足がやけに目につき、僕は胸の中がフワフワと落ち着かない気持ちになった。
彼は剣道部のエースで、去年卒業していった先輩らは誰一人敵わなかったというから本当に凄いのだろう。
尤も、僕は絵筆しか握ったことのない日陰の石みたいな男で、彼の視界にすら入っていないであろう事は理解しているし、それについて特別期待もなければ落胆もなかった。ただ、眼鏡に汗が溢れ居心地が悪かったのだ。
「気にしないでください、どうせ先輩のビール買いに行くんで」
「オイ麻生、文句言うなら俺が行くぞ」
及川さんは階段の二段上から足先で麻生を突いた。麻生からは彼の足の付け根なんかが見えてしまうのではないか、と勝手に妄想しては勝手に自己嫌悪に陥る。
「行きますよ。それに腕相撲、負けた方が買い出し行くって言い出したのは俺ですから」
「お前、あれ手加減したんじゃねぇだろうな」
「まさか」
「じゃあさっさと行ってこい」
「あらあら、仲良しねぇ」
寮生の共同冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐと、華やかな声はしばらく聞こえた。及川さんは厳しく怖そうな先輩だが、あの麻生という後輩が訪ねてくると妙に機嫌がよく、子供みたいな拗ね方をする。
そんな事を何故僕が知っているかというと、及川さんをつい目で追いかけてしまうのだ。それはもう、二年も前から。
麻生はそれから里中さんに買い物メモと財布を渡されると一人、出かけていった。玄関の引き戸を開けた際に外気が流れ込み、むわりとした熱風立ち込める。それは少し奥まった台所にも飛び込んできて夏の匂いを否応なしに感じさせた。
僕は麦茶を飲み干すと、製氷皿に水を張り冷凍庫へ片付ける。すると背後から声が掛かった。それは僕に言われたのか独り言かはわからなかったが、声の主が彼だという事はすぐさま理解できた。
「……あっちぃなぁ」
及川さんは冷蔵庫を開けると、そこで僕に気づいたのか一瞬視線が絡んだ。しかしすぐに気恥ずかしさが勝り、頭を下げて慌てて台所を出ていこうとすると唐突に呼び止められる。
「勅使河原」
「え、は、はい……」
まず彼が僕の名前を知っていてくれた事に驚くも、及川さんの瑞々しい首筋を滴る汗が眩しくて、思わず頬に熱が溜まる。不審な素振りを怪しまれたくなくて思わず背を伸ばした。
「この牛乳、お前のだよな。ちょっとくれないか」
「はい……あ、そ、そうです! どうぞ、こんな物でよければ、全然!」
どう見ても不審者だった。せっかく及川さんが声をかけてくれたのに、何をしているのだと後悔が波の様に押し寄せてくる。しかし、及川さんは少し驚くも、ぱっと明るい笑顔を見せてくれた。
「サンキュ。さっき後輩に牛乳買ってこいって言うの忘れてさ」
コップ一杯分の牛乳を注ぐと及川さんは冷蔵庫を閉めた。それからランニングシャツの中に手を入れると、縦横無尽に掻きむしるから見ておれず、遂に視線を逸らしてしまった。
「そういやあお前さ、この間都知事賞もらったんだよな? 新聞に名前載ってたけど凄いじゃねぇか」
「え……」
「あんま俺、美術ってわかんねぇけどあの向日葵の絵、すげぇ綺麗だった」
もし、これが一人きりであったなら間違いなく滂沱の涙を流しただろう。
好きで、ずっと好きでたまらなかった人に褒められたのだ。日陰の石だった僕に初めて陽が刺したのだと思った。
「ありがとう、ございます」
「いっつも絵、描いてるもんな。そういうの、良いと思うぜ」
「……はい、はい」
何か、もっと何か気の利いた事が言えたらよかったのに。絞り出した声は思ったよりも儚くて、その気弱さに苛立ち泣きたくなる。すると再び夏の風が僕と及川さんの間を遮る様に流れ込んできた。
「ただいま戻りました……あ、先輩。これ、ビールとコーヒー。いつものレコード雑誌はなかったです」
「お、早かったじゃねぇか。まあ、つっても店すぐそこだからな」
麻生は袋一杯に買い込んだビールと、里中さんに頼まれていた物をテーブルに広げる。そこでようやく僕に気が付いたのか、少し頭を下げた。
「あのな、麻生。コイツ勅使河原。寮の一階の右奥の部屋の奴でさ、スケェ絵が上手いんだ」
「……はじめまして。麻生です。及川先輩の後輩で付き人をしています」
知ってる。そう言えば驚くだろうか。しかしそんな勇気のカケラもない僕は、どうも。と挨拶にもならない返事をしただけだった。
麻生は恐らく牽制したのだ。この人は俺のものだと、その目が物語っている。しかし及川さんはそんなヒリヒリした空気など知る由もなく、袋の中から青と白の紙パックを掴んだ。
「あれ、牛乳……買ってきてくれたのかよ。頼むの忘れてたから今勅使河原にもらったんだよ」
「何言ってるんですか。及川先輩、いっつもコーヒーには牛乳でしょ。そんなの言われなくても覚えてますよ」
さすが麻生だ、とカラカラ笑う及川先輩の目にもう僕は映っていなかった。
及川さんはじきに卒業だ。そうすれば、僕の名前などすぐに忘れてしまうだろう。けれども、夏の熱が見せてくれたこの一瞬を、きっと僕は忘れる事ができないと思う。
終