見出し画像

加納と麻生【4】

 恋人として及川の隣にいた十年の歳月は、思いの外短くもありそして永遠に続く道の様な果てしなさも感じる。結局今から思えば、ボタンの掛け違いだった様な気もする。否、違う。そんな簡単な話じゃない。それならばきっと別離を選んだりはしなかった。
 麻生はウィスキーの味を口の中でゆっくり転がしながら及川の目を見つめた。こういう薄暗い場所で見ると存外長い睫毛が影をつくっていて、それがたまらなかった。
 及川の好きな所を言えと言われたら、今だって幾つか挙げられるし結局自分は及川離れができていない子どもなのだと思えば、麻生はそれを恥じもし、同時に少し誇らしく思った。

「そんなに見つめられたら穴が開くぜ」
 は、と気づけば麻生は途端赤くなる。いや、あの。と口籠もりながら後ろ頭を掻けば、緊張してんじゃねぇかよ。と笑われてしまった。
「……なんかさ、ああして三人で飲む事ってそんなにないから。少し勝手がわからなくなってるのかも」
「加納か。ああ、でもあいつはあんな感じで飄々としてるしマイペースだからな。気を使わずに済むから楽だぜ」
 うん、と麻生は頷くと少し間を起き再び及川の目を見つめる。ん? と小首を傾げる様がなんだか可愛らしくて笑ってしまう。
「あのさ。純は……加納さんとはよく飯行ったりするんだよね?」
「あ? まあ、そうだな。お互い都合が合えばってトコだが、加納はあんなナリだか酒には強い。飲み相手としても不都合ないし、それに」
「それに?」
 及川はふ、と口をつぐむ。しかしすぐさま顔を上げると何か思惑するかの様に顎を撫でた。
「……まあ、流石にお前も気付いてるだろうから言うが、加納は合田にホの字なんだ。それでなにかと相談したくなるのか、飯ついでにしゃべったりする」
「……え!」
「ん、どした」
「知らなかった……加納さんの好きな人って合田なのか」
 及川は麻生の言葉に一瞬目を丸くすると、嘘だろ。と頭を抱える。
「ちょっと待て……どう見てもバレバレだろ。本人も然程ありゃ隠してねぇなって思うぞ」
 こういう人の機微を見ることは苦手だ、と改めて麻生は思う。尻の座りが悪くて軽く咳を払い、ウィスキーを飲み干すと、店移るか。と及川に促される。
 ここは良い店だが、本音を言えば今の麻生にはもう少しだけ雑踏の音を味方につけたい。二人は席を立つと、きっちり自分の分の飲み代を支払った。

「純は、明日仕事だろ。まだ時間良いのか」
「ああ。ウンヶ月ぶりの非番だ。お前はどうなんだよ、龍」
「俺は明日午後からだよ。溜まった有給消化してくれって管理官に言われたけど、無茶言うよ。好き好んで休日潰して働いてるワケじゃない」
 二人は夜半前の新宿をあてもなくしばらく歩いた。じきに日が変わるというのに、未だ喧騒の街は流石魔都新宿と言える。
 それから新宿公園まで戻った所で麻生が足を止める。もうこの時間に公共交通機関を使う気になれないのは、及川も同じだろう。
「……あのさ」
「どした。久しぶりに公園で飲むか? コンビニで酒買って」
 まだ二人が若かった頃、今みたいに気安くバーなんかには行けずよく及川のマンションの近くの公園で飲んでいた。及川の部屋まで行くと帰りたくなくなってしまうから、と笑っていた事を昨日の事の様に思い出せば、何故か麻生は無性に泣きたくなった。
「いや、今日はいいや。その代わり……純の部屋に行ったらダメ、かな」
 ちょうど街灯の影に入った事で及川の表情がよく見えない。麻生はそれでも及川を見つめる。及川が、昔から自分のこの目に弱い事を知っていて試すような事をしてしまう。
 きっと、純は困った顔をしている。けれども、困りながらも仕方ないなと言う筈だ。言ってくれず筈だ、きっと。しかし、麻生の願いはいとも簡単にくじかれる。
「……部屋、散らかってんだよ。悪い、今日はどっか入ろうぜ」
「そっか。うん……ごめん」
「何で謝るんだよ。今度はちゃんと片付けておくからさ」
 多分、嘘だ。及川はいつだって完璧で、清潔に保たれた部屋が乱れた事など十年間の中で麻生は一度も知らない。
 掛け違いたボタンからは知らずに糸がほどけていて、その糸は手の中から解けていくのだ。麻生は及川と別れた事を今更ながらに強く、強く実感した。もう抱きしめることも抱き寄せることもできなのだ。その権利を手放したのは、自分。

 眠らない街のコーヒーショップは日を跨いでもそれなりの客足で、二人は散々迷って麻生はフラットホワイトを。及川はアメリカンとチョコレートドーナツを注文した。
「純、お前そんなの食べるのか」
「ああ、結構ウマイぜ。最近疲れてくると甘いモン欲しくなるんだ」
「ハハ、そうなんだ。ちょっと驚いたけど……今度俺も頼んでみようかな」
 チョコレートドーナツはココア味の生地にたっぷりのチョコレートホイップがサンドしてあり、見るからに甘そうだ。麻生はまたひとつ、自分の知らない及川を知る事になる。
 隣のテーブルでは女性の二人連れが恋人の話で盛り上がっている。赤やオレンジの暖色系の白熱光で店全体が暖かく見え、今が深夜一時近くなんてちょっと思えない。なるほど、確かにこうして見渡すと女性客が多いのも頷けた。
「……龍、お前なんなんだよ」
「え。何」
 口に付いたクリームをペーパーナプキンで拭いながら及川がじろり、と睨めつける。何かした覚えがないだけに困惑していると、すぐに及川は笑った。
「さっきから奥歯に物が挟まったみたいな顔しやがって。それとも、もう俺とは腹割って喋りたくねえってのか」
「違う!」
 思いの外大きな声が出てしまい麻生が肩をすくめると、お前のデケェ図体じゃ縮こまってもあんま意味ねえぞ。と及川に嫌味を言われてしまった。
「じゃあ何だよ、と言いたいトコだけど大方あれだろ。俺と加納がヤってんのかとか聞きたいんだろ」
 突然直球を投げられ、麻生は言葉を詰まらせた。しかしだからと言って「そうだ」と素直に認めるのはあまりのも惨めだ。コーヒーを一口飲み、少し背を正す。いつの間にか隣の女性達は大きなフルーツパフェをシェアして食べ始めている。

 皆、思い思いの時間を過ごしているのだ。加納も好きな男に会いに行った。そうして自分は昔の恋人と女子だらけのコーヒーショップで冷や汗を流している。するとそんな自分が滑稽でたまらなくなり、思わず笑い声が漏れた。
「どうした、龍。怒ったのか」
 いじめすぎたか、と及川に思われた事が更に麻生を笑顔にさせる。違うよ、と口端を上げると何か憑き物が落ちたような、そんな気になった。
「ううん、ううん。そうじゃないよ。なんだろ……純の事、やっぱイイヤツだなって思ったんだ」
 及川が加納と寝ようが、もうそれは麻生には関係のない事だ。そして及川が自分の腰を抱いてくれる事も二度と、ない。
「なんだよ。お前、そういう時は好きだって言うモンだろ、嘘でもさ」
「嘘じゃない、好きだ。純、好きだった」
 本当は今でも好きだ。けれども、それが及川がくれた愛情と同じ比重なのかと思えばやはり分からなくなる。こうして珠に会って、膝を突き合わせて酒を飲んで。それだけでも幸福だ。麻生は目を瞑ると、少し鼻をすする。
 及川の人生の中にもう自分はいない。いてはいけないのだと思えば、初めて声を上げて泣きたくなった。昔から及川純が大切だった事には今でも変わらないのだから。

***

「それで、言ったんですか? 麻生さんに」
「……お前との関係か? いやハッパかけたけど有耶無耶になった」
「そうですか。でもまあ、及川さんとしてはよかったのかな」
 コーヒーショップを出ると、深夜二時を過ぎていた。麻生はちょっと歩きたいから、とタクシーを断ったのでそこで別れた。
 及川は初台方面に車を走らせ、家の近くで下車すると歩きながら若い検事に電話を架けた。着信があったので、折り返したと言ったほうが正しい。

「それよりお前はどうなんだよ。彼氏はどうした」
 先程慌てて出ていった背中を思うと、お節介を妬きたくなる。けれども電話の向こうで微かな笑い声を聞けば、ああ。と理解した。
「……今日は団地には帰らないですよ。まあ、知ってましたけど」
「なんだよ、じゃあお前今は一人か。カッコつけやがって」
 及川は歩きながら煙草を咥えると、なかなか火を付けずに夜風を楽しんだ。わざと少し歩ける距離で下車した事に他意はないが、すぐに部屋へ戻る事を憚れたのかもしれない。
「せっかく二人きりにしてあげたのに、なんだ。イイ事なかったんですね」
「あるかよ。もう、アイツとは何もねえ……向こうは俺の家来たいって言ってたけどな」
「……家に呼んだらよかったじゃないですか。ほら、焼けぼっくいに火がつくっていう言葉もありますし」
 明らかに楽しんでいる加納の顔を目に浮かべば、及川は分かりやすく舌打ちをする。それからようやく火を付け、公園内のベンチに腰掛けた。ここは麻生とよく待ち合わせた場所でもある。
「お前がこの間忘れていったジャケットがあんだよ。……ったく、まあ別に隠す事じゃねえけど」
「ああ! そうでしたね。すみません。また取りに伺いますね」
 一度だけ加納を家に呼んだ日は、何もせず泥のように寝て起きただけだ。その日は珍しく加納が荒れて、前後不覚になるまで飲んだくれたので、一人で帰す事が偲びなく及川が家に連れてきたのであった。
「今度、持っていくから来なくていい」
「あ、もしかして俺の痕跡は嫌でしたか? それは失礼致しました」
「ドタコ。そんなんじゃねえって。もう切るぞ」
 二本目の煙草に火を付け、肺に入れる。空を仰げば星も見えない東京らしく、漆黒の闇夜が広がる。すると受話器の向こうで加納も煙草を吸っているのか、息が途切れ途切れになった。
「……まあ、結局俺も貴方も同じ穴のムジナーズですよ」
「ムジナーズ……」
「おっと、それを言うならば麻生さんもね。まあ、でもよかったですね。今でも彼は及川さんに夢中じゃないですか」
「バカ言え。そんな事あるか」
 何度めかの悪態をつくと、及川は加納の返答を待たずに通話を切る。それから煙草を吸い終えるとようやくベンチから立ち上がった。

「もうなんもかんも、終わってんだ」
 たとえ今日加納のジャケットが家になかったとしても、おそらく及川は麻生の申し出を断っていただろう。家は自分のわかりやすいテリトリーだ。恐らく、怖かったのだ。麻生が境界線を超えて自分の内側にまた入ってくる事を。
 それだというのに、及川はまだ麻生を愛している。きっと、この先新しい恋人ができたとしてもそれは変わらない、不変という物なのだ。
「ムジナーズか……」
 加納に名付けられたよく分からない名称を口に出すと、笑いがこみ上げてくる。とりあえず家に帰ったらジャケットを紙袋に入れて、明日渡してやろう。難儀な道を歩いているのは及川も加納も。そして麻生も同じだった。