看病及川❷

いまはガラスの蓋をしめて

■桜庭44歳を看病する及川44歳


「……あれ、桜庭か?」
 及川が医務室に包帯と貼り薬を返却に行くと、在中している筈の老齢の女医は不在であった。代わりに患者を寝かせるには日当たりが良すぎるベッドの上には大柄な男が一人、横になっている。いつもならば気にもしないであろう、その場所にふと目が止まったのは薄い純白のカーテンがふわりと風で大きく膨らんだせいだ。

「ん? じゅ、お、及川……! どうした……って、痛たた」
「無理すんな。珍しいな。腹でも壊したか」
 及川は薬やヨードチンキ等が並ぶガラス戸に包帯類を戻すと、かつて恋をしていた男を見下ろすようにベッドの脇へ立つ。桜庭は突然の予期せぬ訪問者を前に驚いたのか上半身を起こすも、健康優良児を絵に描いた様な男は途端頭を抑えベッドに転がった。
「……風邪ひいたかもしれん。ガキの頃ぶりだからこれが風邪かどうかも分からん」
「なんだそりゃ。頭が痛いのか? 熱は……お、結構熱いぜ」
 及川はふいに桜庭の額に手のひらで触れるも、その熱さに思わず驚く。目は潤み、吐く息はいつもより熱を帯びておりこれはいよいよ本当に風邪にやられたらしかった。しかし桜庭は及川を前に、へらっと表情を崩すと額に当てられていた手を咄嗟に掴み引き寄せる。やはり、体が熱い。
「カジさんには帰れって言われたんだけどさ、帰らなくて正解」
「……何馬鹿な事言ってるんだ。朝から具合悪かったのかよ」
 桜庭は及川と別れた後、すぐに上司の見合いで結婚して一児をもうけたがそれでもその心には今も尚及川への恋心が燻り続けている。
 それを及川も知っているからこそ不用意な接触は桜庭の心を波立たせるだけだと分かっていた。分かっているのに、こうしてかつて情を交わした相手が弱っていれば、声を掛けたくなるのが人情という物なのだろう。元より及川としても憎くて別れた訳ではないのだから。
「ん、昨日の夜から熱っぽかったんだけどな。無理して出てきたけど……ちょっとキツイ」
「病院は……ていうか、お前嫁さんはどうしたよ」
「三日前から息子連れてアッチの両親と旅行行ってる」
 及川は、近くの椅子を引き寄せ腰掛けると足を組み、桜庭の頬にそっと触れてみる。及川の手が冷たかったのか、桜庭が熱かったのかそれともその両方か。また風が一迅吹上げ、カーテンが揺れた。
「寒いだろ、窓閉めようか」
「……いや、いいよ。それより純」
「ん? 水か……何か買ってくるぞ」
 桜庭はゆるゆるとかぶりを振ると、及川に手を差し伸ばす。握れと言っているのだろう。
「ここにいてくれ、純。今だけでいい」
「……俺、忙しいんだぜ」
「知ってるよ。だから、今だけ。なあ、いいだろ? 今だけ純を独り占めさせてくれ」
 及川は眉を下げるも、それでも強く跳ね除けられないのはこの男の事が好きだからだ。尤も、そこにかつての恋愛感情は無いが好ましく、溌剌とした良い男だという事には何ら変わりない。
 桜庭の手のひらは皮膚が厚く、少し乾燥しているがしなやかで弾力がある。いつもより熱を帯びた懐かしい男の手を取ると及川は薄く笑った。
「なあ、そういえばお前の嫁さん何て名前だっだか」
「ん? どうしたんだよ急に」
「この間、わざわざ歳暮を送ってきてくれたぜ。お前の名前だったけど。お礼電話しようにも、嫁さんの名前も知らないのはちょっとな」

「……スミコだよ」
 桜庭は及川の目を射抜くように見つめる。すると、及川の脳裏に結婚式以来顔を見ていなかった一人の女性の横顔が甦った。髪が長くすらりとした体躯の貞淑を絵に描いた様な人であったか。
「ああ! そうだ。スミコさん。結婚式の時は名前を音で聞いていたからな。漢字はどんな字を書くんだ?」
 刹那、握られた手が強くなる。及川は身じろぐ事もせずに桜庭の熱に浮かされた目を見た。相棒の様な存在で四課に居た頃からその意思の強い瞳は変わっていない。この目に、この手に、この男の心に及川は何度も救われてきた。

「純、の子」
「え……?」
「純と同じ漢字だよ。純愛の純に子供の子で、スミコ」
「そ、そうだったのか。覚えておく」
 桜庭は及川の手を離そうとしなかった。切り取られたこの世界は二人ぼっち。遠くで人の声が聞こえたが、やはりすぐに遠ざかっていった。まるで、誰もこの場所に寄せ付けないように。
「純と同じ名前だったから、結婚決めたんだ」
「ハハ、嘘つけ。嫁さん、美人だったからだろ」
「……あんま、第一印象って覚えてねぇよ」
 何を言葉にしても薄っぺらく聞こえてしまう気がして、及川は口を噤んだ。そうして今も変わらない愛を渡してくれる男を前に、何故か少し目の奥が熱っぽくなる。
「俺はさ、狡いから。お前が手に入るならどんな事でもしたくなる……汚い俺が溢れだしそうなんだよ」
「お前は……正道は狡くも汚くもねえだろ」
「ずるい。もっと、あの時も狡くなればよかった」
 及川は瞼を震わせると目を伏せ、馬鹿野郎。と小さく呟く。繋いだ手はまだ離せず、また風が大きく吹きすさんだ。