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それが難しいのだけれども。

“ものをつくる”とはどういうことなのだろうか。

どうも。お久しぶりです。
旧:ホリエ 
改めまして、BAU(バウ)です。


ここで個人的な話を。
わたくし美大生でして、ここ最近は進級展やらなんやらで“ものをつくる”ということに敏感になっております。もちろん自分の作品に注力することが主ではありますが、時同じくして他大学でも卒業展示・進級展示が開催されており、自分以外の友達でもない全く知らない人の作品も見ることになります。「なぜその作品になったのか」「なぜこのように展示されているのか」「この時代にこの場所で自分がやる意味」など目の前の作品という“もの”よりさらに奥のなにかを探そうとしますが、結局のところ、そのなにかを見つけられなくとも「かっこよければそれでいいじゃん」となるのも事実です。


では、「かっこよければ…」の状態=「魅力的」になるにはどのような条件が整っていなければならないのでしょうか。
ビジュアルとその“もの”の持つ意味内容とのズレに関係するのではないかと思いました。
単純にビジュアルだけ良く、内容が全くない「見かけ倒し」のものや内容だけが膨らんで何がしたいのかわからない「頭でっかち」なものには外側のビジュアルと内側の意味内容との差が大きく「なんだこんなものか」という感情を抱きやすいのだと思います。これは技術や思想のレベルの程度はあまり関係なく、例えば未就学児の絵を見た時「なんだこんなものか」という感情ではなく、勢いがあり自由で楽しく絵を描いていて魅力的であると感じるはずです。
また、時にはこのズレを意図的に生じさせて心地よい“もの”ができる場合もあります。ポップでキャッチーな感じなのに内容がグロかったりと。「キモ可愛い」や「グロ可愛い」が良い例かもしれません。
そして、ごく稀に「なんかいいなぁ」と思う時、なにがいいのかその場では分からないという現象に遭遇することがあります。そんな時は大抵自分の理論体系にないものが眼前に出てきていて理論的ではなく本能的にそのビジュアルと意味内容を理解し、「良い」と判断している状況なのだと思います。



これは芸術作品にだけ言える話ではないと思います。飯をつくる、服のコーディネートをする、雑誌をつくる。なにか我々が“つくる”という行為をしようとした時、「ビジュアルだけカッコよければ」「内容だけ埋まっていれば」というような考え方が、その“ものをつくる”過程で生じてしまう、キッパリとした言葉で言えば「中途半端な考え」で“ものをつくる”ということをしてしまうと、それは真摯的なものづくりではなくなり、そのものの受け手は違和感を感じてしまう。時には幻滅させてしまうおそれがある。


真摯的であること。
真摯的であるために試行錯誤すること。


少なくともこの考えが徹底されていなければ、なにを作るにしても駄作になってしまうのではないでしょうか。


文:BAU


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