MISIAと紅白とレインボーフラッグ

MISIAが紅白という戦後日本における年末の原風景ともいうべき舞台でレインボーフラッグを掲げ、ドラァグクイーンとステージを共にし熱唱してくれたという。セクシャルマイノリティとして、氷川きよしさんのある種のカミングアウトと共に、素晴らしく喜ばしいことだと思う。

一方で、マイノリティのなかには「資本主義と国家、マジョリティに自分達の象徴であるレインボーフラッグを“簒奪”された」と感じた人も少なくなかったらしい。

ここまで伝聞形式で書いているのは、自分はそもそもテレビが苦手なので、紅白も見ていないためである。そして、最近前述のような声をTwitterで目にした。

https://wezz-y.com/archives/71794/amp?__twitter_impression=true


https://twitter.com/r88088595/status/1214524874804252672?s=21


マイノリティは、マイノリティであるが故に己の存在をマジョリティに対して訴え、存在を認められるところから権利の確立を始めないといけない。その手段と象徴のひとつがレインボーフラッグであり、それがあのような大舞台でMISIAというLGBTQ+のカルチャーを支援した実績のある著名人によりマジョリティの認知するところになったというのは、氷川きよしさんのステージと共に日本社会におけるひとつのマイルストーンと言えるのではないかと思います。

一方で、全てを「娯楽」として消費する国民性の前では、MISIAさん、氷川さんのある意味「命」を賭けたステージも刹那的な娯楽として消費され、レインボーフラッグはファッションとして消費されるのではないかという危惧も覚えます。

ポジティブに捉えるのであれば、今回は一旦レインボーフラッグという象徴がマジョリティに認知された、それが「ファッション」として消費されるのはどうせほんの短期間である、消費し尽くされた後に、私たちは再び旗を掲げて歩き出そう。そのときには、旗の意味を知る人も多いだろうから。という考え方もできるかと。

セクシャルマイノリティは、どこまでいってもマイノリティです。それは、確率論的に立証されています。マジョリティになり得ない私達はどうすればいいのか。私達は「確かに存在する」こと、それが少数であれど当たり前であること、奇異ではないこと、突き詰めれば行動原理にマジョリティもマイノリティもないことを地道に伝え、浸透させることではないでしょうか。

最後に。ゲイカルチャー、LGBTQ+カルチャーと一言に言っても、そのなかに入っていない、入っていけないLGBTQ+はたくさん居ます。これらのカルチャーは派手過ぎる。また、参加したくとも、地方在住の人には難しいでしょう。そういう場もない。あっても、現状では参加したことがバレたら家族ごと地元に居られなくなる。
そういう意味で「ゲイカルチャー」「LGBTQ+カルチャー」もまた、レインボーフラッグと同じく象徴であるということを、カルチャーの核にいる方には自覚して欲しいと思います。

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