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自分は何処にいるのか?

「此処は誰、自分は何処ですか?」と聞いたら頭おかしい人かと疑われる。自分とは一体誰なのか、その疑問に答えるべくルーツ探しや自分探しを敢行してみるが、自分探しをしてみた処で大抵自分なんて見つかりません。どうしてかと言うと、「自分」は肉眼では目視できないからです。肉眼で目視できるのは、自分の肉体身体であって「自分」では有りません。

さて、「今何処にいますか?」と聞かれたら「日本」に居ますとか、地球に居ますとつい答えてしまうが、それがいけない。安直な答えが自分理解をミスリードさせ、結局人類を迷妄へと迷い込ませた。

では正しい答えとはどういうものだろうか?「自分」は「今此処に居ます」と言うのが正しい。そして其処は何処ですかと問われたら、「宇宙の中心」ですと即答しましょう。全てが無から創造されるのは、宇宙の中心からであり、其の宇宙の中心に自分は居る。過去や未来では無く、「今此処」に居る。過去にワープする際も「今此処」から入る訳です。だからブラックホールも宇宙の彼方の何処かにあるのでは無くて、「今此処」に有る。一秒前の過去も十秒前の過去も実は「今」によって活性可能であり、そう言う意味で「全ての過去は無数の今」なのであり、全ての未来も未来生も「今此処」に有る。いや逆に言うと「今此処」しか無いのである。今此処しか無いから、「今此処」は永遠であり、不生不滅であり不老不死な訳です。

宇宙の中心はアンドロメダ星雲の向こうの方に有るとか言ってるから、何千年でも「迷妄意識体」を続けてしまうのです。別にそれが悪い訳じゃないけど。

迷妄人生、堕落人生、其れら全ては経験値足り得る。大天使も一旦堕落天使に成って観ることで何か学ぶのだろう。

ただ地獄がどういう処か体験してみるかと一旦地獄に落っこちて見ると、大抵抜け出し方を忘れるので、未来永劫其処に留まる羽目になって、それは其れで得策とは言い難い。

人間だってそうで、人間やってみたいと思い立ちいざ人間やってみたら、一生奴隷だったり、戦場で首を切り落とされたり、苦しくて手首を切ったり、首吊ったり、予想外に悲惨を体験しています。そんな事本当に体験して見たかったんですかと聞いてみたくもなる。

さて、一粒で二度美味しい人生なんて有るんでしょうか?大抵、人間なら人間、動物なら動物でその一生は終わります。

それは其れで充分に楽しい。猫に生まれたからにゃーんと鳴いてみるとか、女に産まれたからには、一度は男に騙されてみたいとか。

でも中には、もっと特異で破天荒な常人ならざる人生を体感してみたいと言い出す贅沢人間、一生の内に人間と神の両方を体験したいと言う「欲張り設定」を所望する人も出現し始める。彼らは「神人体験がしてみたい」と言い出したのである。

其れはそれでスリリングで愉しいのかもしれない。人間の人生はもう体験し尽くしたから、もういいかみたいな。

半知半能の人間だった自分が、一歩また一歩と全知性と全能性を獲得していく愉しみは恐らく格別でしょうね。

宇宙の中心は何処ですか?今此処です。自分は今何処に居ますか?今此処にいます。と言う事は、宇宙の中心も今此処も一つでは無くて、無限個無数個有ると言う事です。一でも有るし、多でも有る、だから一即多なんでしょう。宇宙もブラックホールも星の数ほど有って、全ての道は今此処に通じているから、今此処から何処にでも行ける訳です。

人間はドラマチックやお涙頂戴のストーリー性を欲しがる、だから欲しがりません勝つまではと言って、世界大戦を始めてしまった。

人間は天変地異やカタストロフィが無いと退屈なんでしょうか、平穏無事だとあくび連発なんでしょ、恐らく大惨事が好きなんでしょ。

天変地異や戦争や飢餓をプロジェクションマッピングで、外界に映しながらも、自分の心は其れに一切動じる事なく不動心と平穏に遊ぶ。そんな事は可能でしょうか?
外界に首を突っ込んだ者たちだけが「リアル悲惨」を体験できます。

「外界を認識する」とは、外界を五感を通して、「部分的に転写」したのである。なぜそんな事をしたの?「最初に外界有りき」「最初に物質界有りき」と「錯誤」してしまったからである。この錯誤こそが「輪廻と言う無限停滞」を招いた。ゲームなんかでそのステージをクリア出来るまで、何回も同じ場面が繰り返されますね。それと同じ事を実人生でやっていたのが人間霊魂なんです。

人生はゲームです。戦争ごっこの延長で「リアルに殺し合う」、そして食糧難で「リアルに餓死」してみたいんです。それともプロジェクションマッピングに戦争の映像を映すの止めますか?あなたは「外界」が好きなんでしょ?言い換えれば、人類全員が「内面軽視人生」なっているんです。人間とは外界に振り回される意識体です。これでは、人間とは外界に付着したゴミでしかない。だから一生が無意味に終わる。何も悟らず年月だけが過ぎていく。いんじゃない、人間だもの。其れでプロジェクションマッピングに戦争の映像ばかりを、飢餓や大惨事の映像ばかりを、好んで映したがる人たちって居ますね。ネガティブが三度の飯より好きと言う人たちです。

ネガティブを転写反転させればポジティブになれるが、人間にはそれが中々できない。一生涯ネガティブ人生と言う人は少なくない。何がネガティブかの「判定力が無い」からそうなってしまう。人体の99%はネガティブで出来ていると言えるくらいに人間はネガティブ化してしまっている。

其れであらゆる意識体は、人間に限らず天使悪魔動物に神々と、それぞれが今此処で楽器を奏でている。一生低い音の鍵盤しか使用しない意識体がいて、1オクターブ上だけ使う魂、10ターブ高い鍵盤ばかり頻用する霊魂、それを宇宙的棲み分けと言います。悲しみと怒りの感情ばかりを奏でる人が居ます。例えば、悲劇のヒロインはメディアの大好物です。悲しい哀しいと生きていたら、それは習慣化し癖になり、神経回路は結局悲しいを頻発させる。怒りや悲しみといった鍵盤は、天国の住人たちの好む音程では無い。それは何故なのか?「愉しき事のみ多かりき」で生きてるからです。地獄の住人たちは悲しみや怒りの鍵盤ばかり連打したがる。生活習慣病だから生活習慣としてそうしてしまう。どっちが偉いと言うのでは無くて、どの鍵盤を叩きたいか、単にどの音を出したいかの違いで、映る景色や音色が違い、心地よい風景だったり、地獄絵図だったりする。映った景色に条件反射的に反応しても幸せにはなれないし、快適な時空にもならない。

自分の今いる場所が、何オクターブ下なのか上なのか解った上で、鍵盤に触れてみたい。この鍵盤を弾いたら多分あの阿鼻叫喚の効果音だと思うけどと判った上でその鍵盤を弾きたい。

天国は今此処に有る。地獄も今此処に有る。天変地異と言う物騒なメロディを聴きたい人がいる、戦場を見たがる人や心霊スポットを好む人がいる、不運や不幸ばかりに目が向く人がいる、一方毎日毎日怒っている人がいる。そうかと思えば、平穏無事にしか関心を向けない人も居る、それらは全て自分自身が奏でる鍵盤のメロディだったのです。

自分の今居る場所、今ここが宇宙の中心で、自分の外の外界を中心に生きては駄目なんです。自分が外界を転写しては駄目で、自分を外界に転写させないといけないんです。人類とは「逆転写」もしくは「転写ミス」なんです。だから輪廻と言う無限ループを続けた。それって「一種の進化停止」だったんです。「悠久の道草」と言ってもいい。不老不死なんだしまあいいか。






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