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引き寄せたい自分、「永劫回帰する宇宙」

第一章 「要らないから手放す」

貧困とか困窮、飢餓とか飢饉、病気や災害、それらは個々バラバラに起きて来る。だから、何が原因でそれらの現象が起きたのか人間には解り難い。個々のネガティブに思える出来事の全てが、実は全て自分自身に起因するとしたら、一体どう言う事に成って来るのでしょうか?例えば、自分が前世で他人を拷問した事があったとします。そのカルマの清算を今世は身体の病気として体験させらるとしたらどうでしょう。もしも自分がその全体像を俯瞰出来たとしたら、かつて自分が与えた物を今受け取るのだと解ります。それを定式化するならば、「与えよ、さらば与えられん。奪う者は奪われ、虐める者は虐められ、裁く者は裁かれる」つまり、世の中はすべからく「反射」なのだと悟れば良いのです。怒鳴る者はいつか怒鳴られる訳です。そのカルマを受け取らないためには、それを解消するための特別な手続きが必要になります。悪人は発した悪をいつか自身が受け取る。それは単に宇宙のエネルギーバランスに過ぎません。

さて自分がネガティブな発信をしたので、ネガティブな現実を受け取りました。と言う事は、ネガティブな現実を受け取りたく無ければ、自分がネガティブな言動を一切辞めて、ポジティブな言動だけを発していけばいい訳です。でも、今地球に生きている80億の人間は、普通にネガティブをルーティーン化して生きて来た意識体だから、未だに現状として自身の望まない現実を創造し続けています。

第二章 「ネガティブを手放す」

ネガティブを手放すって、ネガティブを排除したり、ネガティブに蓋をする事では有りません。今まで使ってきたその周波数を単に使わなくなると言うだけの話です。それは使わないだけであって、其処にちゃんと存在しています。ただそれに自分自身がスポットを当てて活性化しないだけなのです。

旧約聖書に出て来る失楽園とは、おイタをした子供を楽園から追放する、つまり精神世界から締め出して、物質界に閉じ込めて「精神の成熟するのを気長に待つ戦略」と考える事も出来ます。

人類と言うのは、放って置くと、いがみ合い憎しみ合い、ついには殺し合って滅亡してしまいます。その度に大地は汚れて砂漠化し、浄化の為に大陸は海に没して、文明は其処で終焉を迎えます。

人間は皆んな健忘症だから、「あれっ、宇宙の真理って何だっけ」と直ぐ忘れてしまいます。その度に仏陀とかイエスが出て来て、「あっ、そうだった」と思い出させるのですが、直ぐにまた記憶が曖昧になって来て、人々は次第に真理を見失い、そのうち悪が世間に蔓延してしまいます。これを「エントロピーの増大」もしくは「三次元世界の経年劣化」とか、或いは「世の終わり」と言ったりします。私はこれを「数万年の道草」と呼んだりします。

さてエデンの園から逃げ出したアダムとイブは、その罪意識から自己否定感と罪悪感を基調とした「労苦としての人生」を歩みます。それ故「汗水垂らして働け」「歯を食いしばって頑張れ」「努力が足りない」と叱咤激励されたりします。

創造主の造りし子供であるはずの人類は、血筋として生まれながらに創造主じゃ無いんでしょうか?血統として被造物、つまり血筋としては奴隷なんでしょうか?

楽園を追放されてもされなくても、意識が一人前に成長するには、数万年は余裕で掛かるのかもしれません。だって宇宙戦争なんかしていたら何万年かかってもけりが付きません。それは修羅世界の永続であり、テクノロジーの発達に心の発達が追いつかない並行現実を生み出します。

第三章 「砂漠に花を咲かせましょうか」

自分の意識が成長して、非物質界が有るのだと気づいたら、人類の集合意識は次元上昇して、神人類つまり世界を自身が創造し得る意識体になります、それは言い換えると、神が創りしこの被造物世界は一旦「世の終わり」を迎えても、自身が新たに自在に創っていけるからまあいいかとなる訳です。

19世紀を生きたニーチェは「神は死んだ」と戯言を言った。人類は楽園を見失った時点で既に、神を見失っていたのです。つまり聖書の言う「楽園」とは「非物質世界」即ち「精神世界」の事だったのです。拍子抜けするくらいの単純な話です。

意識とか精神って一応「不可視」です。だから物質界にフォーカスする自然科学は、扱わない事にしました。扱うと頭が混乱して科学的じゃないと否定されました。こうして無神論者は束の間の勝利に溜飲を下げました。アインシュタインにしたって神を見い出し得たとは考えにくいです。人生とは、短い限られた寿命の内に、神を見い出せるか否かと言う極めてシンプルなマインドゲームなのです。オンラインゲームにうつつを抜かしてる場合では有りません。毎日お祈りを欠かさないのに、一生神と出会えない、苦悩の人生だって有り得ます。簡単そうで難しく、難しそうで実は至極簡単なのが、気づきと悟りの醍醐味なのです。

第四章 「自身の神を見つけ出す旅路」

「あの人は天才だ」「あの人は神だ」、他人をそう言ってリスペクトするのは良いのですが、それでは自分はどうなのですか?「自分は凡人です、クズです、底辺です。」そうじゃ無くて、自分をリスペクトしていけるように成る事が、自分の人生のこの世に生まれて来た意味なのです。そして最終的に自身が自分で神を見つけ出す、それが自分と言う意識の最終ゴールなのです。

だから、「私は無宗教なんです」、「無神論者なんです」、「唯物論者なんです」、と得意気に言うべき事では無くて、あなたはまだ見つけられないのですね、ご愁傷様ですと言う話なのです。

第五章 「引き寄せ対決」

他人の唱える引き寄せ法則は、大抵自分にはしっくり来ません。だから結局、自分で見つけ出すしか無いんです。昨今色んな流派が雨後の筍みたいに乱立し始めました。あなたはエイブラハム派ですか、それともバシャール派ですか?話を少し聞いてみて「分かり辛かったらスルー」しましょう。無内容な話を延々としゃべるボケ老人もいます。

第六章 「始めと終わりでワンセット」

旧約聖書は冒頭で、「神が天と地を創造しました。」で始まる。それで創られしこの天地は、経年劣化で何時か終わりが来るのだと考えれば、その終わり方を新約聖書の黙示録として、最後に持って来たとも解釈できます。

80億人各々が自分自身の神を見つけ出すためのツールとしてまず考えられるのは、聖書、宗教、量子力学、お経、果たしてどれなんでしょうか?

最強のツールは自分自身です。「汝自身を知れ」と言うけれど、自分を知るのが一番難しくかつ一番ファンタスティックでワクワクすることなのでしょう。






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