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一神教と多神教、 「その先に有るもの」

人類は五感で感知出来る物しか存在しないと思いがちです。この数千年の間はそうやって生きて来ました。

つまり万物にしか意識が向かいません。でもこの万物って、観測者である自分が、波を粒子化させて知覚しているのです。つまり万物は元を辿れば全て「波」なのです。言い換えると、波動でありエネルギーなのです。

エネルギーと言う「ただ一つのもの」が意識分裂して無限無数個の意識体になった「その中の一つが今ここに居る自分」です。

意識は無数の形態を採る事で自分を謳歌しています。だから或る意識は、天使になり、或る意識は宇宙人になり、或る意識は精霊になり妖精になり悪魔になってその自分の生を楽しみます。

だからもう地球人は十分堪能し尽くしたから、次は宇宙人に生まれてみるかと思い立ってもいいのです。

生命エネルギーとか宇宙エネルギーと呼ばれる「ただ一つのもの」が色んな形や形態を取りながらただ単に遊んでいるのです。

そして或る者は、まだ知能や知性の低い星に降り立って、「我こそは神なり」と神様を演じて面白がったりします。

まだ人類の知性が低い段階にある時は、一神教か多神教かで論争し、殺し合いで決着をつけます。どっちも間違ってはいないけど、実はどっちも間違いなのです。「形有る者」を神と崇める事を、「偶像崇拝」と言います。人間の宗教は、大抵このレベルに留まり易い。「形無き者」を神と捉える事が、難しいからです。だから「形有る教祖さまイコール神」と考えがちです。

でも万物は、全て元を辿れば宇宙エネルギーと言う「形の無い存在」なのです。自分と言う「意識存在」だって肉眼では見えません。

でも霊眼で視れば、全てはエネルギーです。人間は生きているのでオーラを放ち、その放ったエネルギーを周囲の物が吸収します。だから断捨離出来ない人は、周囲の物にエネルギーを吸い取られて、運気と元気が削られて、ネガティブ波動に傾くのです。

「私引き寄せられません」と言う人は、髪の毛もお部屋も大抵とっ散らかっています。自分の心の中がカオスなのです。つまり豊かさを引き寄せる「強力な磁石」に成り切れて無いんです。

宇宙人を神と崇める人がいます。動物霊を神と崇める人もいます。天に住む神々は神々で、各自勝手な事を言っています。つまり其々がまだ自分たちの思惑の中に生息しているのです。人間にああしろこうしろと指図したがる神様もいます。

結論を言えば、自分の好きなように生きたらいいのです。南海トラフに遭いたい人は、そっちに意識を向けていれば出遭えます。遭いたくな無いのであれば、地震情報をチェックしてはいけません。貴方の意識が、自分の体験したい現実を決めるのです。被害者になる人も犠牲者になる人も全て、その人が自分自身で選択しているのです。

人間は、神を拝むか仏を拝むかで直ぐ殺し合いを始めます。仏像を拝むのはけしからんと仏教遺跡を破壊して喜んだりします。それが今の人類の意識レベルなのです。だから人食い人種や人食い宇宙人を責めてはいけません。自分たち人間だって、牛や豚やニワトリを食べて舌鼓を打っているのです。今の現状はそのレベルなのです。

何れ進化して宇宙船暮らしに慣れてくると、食べたり飲んたりしていたらその度に、トイレに行く必要を感じ、そのトイレで用を足す事の不便さと面倒臭さから、何れ人類は食べないし飲まない自分へと進化して行きます。その時が来るまで、この松阪牛美味しいねと楽しんでいれば良いのです。今日明日にも不食にしなきゃでは無くて、その人のマイペースで、何百年もかけてゆっくり不食にたどり着いてもいいのです。

今まで人類は長い間、一神教か多神教か、その二者択一しか考えられませんでした。現象面しか見ないからそうなる。粒子化した物だけを見るから、波がつかめない。二者択一思考から脱却して、此れからは「一でも有るし、多でも有る」と言う「一即多」の考え方が求められます。

つまり一神教でも多神教でも無い、「一即多教」が模索されて良い。だって光は、波でもあるし、粒子でもある。それを波だいや粒子だと、論争して殺し合いを始めたらいかにも愚かしい。人類の知性の成熟をじっくり気長に待つとしましょう。

「自然崇拝じゃ駄目ですか?」「一神教に改宗しないと皆殺しだ」

実は日本でも宗教戦争は有った。神道対仏教の戦いで、蘇我氏と物部氏は対立しました。つまり宗教イコール宗教戦争に成りがちだから、「和を以て貴しとなす」がなかなか難しい。それで神仏習合を模索してたら、神仏分離令が出て水の泡にされます。そう言う訳で、宗教は超宗教へと進化するしかないんです。

一方、科学では、どう頑張っても「素粒子にも意識が有る」とは言えません。つまり、其処が現代科学の限界点なのです。そして行き詰まった現代科学のその先に模索されるのが「宗教と科学の融合」、つまりは「超宗教でかつ超科学な何か」、それが「一即多教」なのです。

神道か仏教か、ユダヤ教かキリスト教か、そのせめぎ合いの中で、聖徳太子もイエスも生け贄にされた。宗教の持つ幼児性では「和を以て貴しとなす」の境地に至り得ないのです。

万物と言う森羅万象に目を奪われるから戦争になる。その万物の森羅万象は、宇宙と言う「ただ一つのエネルギー」が「観測者によって粒子化」したに過ぎません。つまり戦争とは、自分たちの視座を下げて行くことで、初めて可能となるのです。分離意識によってエゴの自分が産まれ、それが生存競争と弱肉強食の世界を可能にしました。宗教もこのマトリックス世界の内部に留まります。平和と平安はその外に有るのです。


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