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二種類のサバイバルゲーム

第一章 「生存競争サバイバル」

サバイバルゲームには二種類ある。一つは生物としての生存競争に生き残る事である。食うか食われるかだから、どんな汚い手を使っても生き残れば勝ちである。

第二章 「霊魂の選別サバイバル」

だがそれは偽物のサバイバルゲームであって、本当のサバイバルゲームではない。本当のサバイバルゲームとは、霊魂のサバイバルゲームであって、肉体や生物が生き延びたか否かなんてどうでもいい。

最後の審判で自分の魂が火で焼かれるのに、人間として生物として生存競争を生き延びたとしてももさしたる意味はない。

さて、ノアの方舟で生き延びたノアの一家もその直ぐに堕落して滅び去って行った。つまり、これは本当の選別では無く、仮の通過儀礼としての信念お試しゲームに過ぎないのではなかろうか?

本当の霊魂のサバイバルゲームになっていないからである。生物としてのサバイバルなんて本当はどうでもいいのである。実際、自分の霊魂としての、精神としての、意識体としての最後の審判をパスし得ない者たちが生物として生存競争に一時的に勝利したところで、生物は寿命により最終的には「全員を敗者」にしてしまい意味がない。
人間を含め全ての生物は死を免れないゆえに全員が最終的にサバイバルゲームの敗者なのである。

板垣死すとも自由は死せず。肉体を持ってしまった人間として誰しも暗殺されうる可能性を免れないゆえに、その生命の脆弱性を人は悟らねばならない。果たしてそれは本当の生と言えるのだろうか?

たとえ卑怯な手を使ってサバイバルゲームを生き延びても、最後の審判で霊魂が焼かれるのであれば彼は本当は「敗者」なのである。

ひょっとしたら人類は誰一人本当のサバイバルゲームで生き残れないのかもしれない。自分が本当に生きるとはどういう事か解ってないからである。

第三章 「真のサバイバル」

自分の精神、自分の魂こそが真のサバイバルゲームの勝者なのである。繰り返すと、肉体としての生存競争に明け暮れる生物としてのサバイバルにさしたる意味なんて無いのである。

自分の不老不死性を悟ること、言い換えれば、自己の不滅性に気づくことが本当の意味でのサバイバルなのである。

貴方が今懐いている信念の総体はサバイバルツールたり得ているでしょうか?



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