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汝の敵を愛せない、「生存競争と不殺生」

人間界では、「敵を殺せ、殲滅せよ」と教えられる。人間界の一段下にある修羅世界でも戦と争いが日常化している。

それは何故なのだろうか?殺戮が可能なのは、「愛の欠如」と「愛の不足」つまり、カルシウム不足とかビタミンCの不足と同様に、愛が絶対的に不足している。

「汝の敵を愛せ」と言われても、憎っくき敵を愛せる理由が見当たら無い。だから、敵を平気で殺せる。

「生存競争」だって結局「殺し合い」で、それを正当化するために詭弁を弄する。食うか食われかなのだから、食い殺すしかないと自分を正当化し納得させているに過ぎない。

だから、修羅世界や人間界では、「汝の敵は愛せ無い」。何故かと言うと、「愛の絶対量が不足している」からである。人間界とは、「愛の枯渇」がテーマなのである。

それで「憎しみから愛へ」のパラダイムシフトは、敵を愛せるようになる前に「先ず自分自身を愛せ」と言う事になって来る。他人を誹謗中傷したい、他人にケチつけたい、ダメ出ししたい、その心理の根底には、自分自身への憎しみや怒りが隠されている。自分への怒りや憎しみやダメ出しを胡麻化す為に、利他主義に走ってみたりもする。

自分を愛せる為には自分を認めるしかない。つまり自分を肯定するしかない。

そうなると、自分も他人も敵も味方そのうち全てを全肯定するしかないと気づかされる。「否定をゼロにする生き方」は、およそ人間的とは言い難いから、「汝の敵を愛せ」は人間の発言では無い。憎っくき敵を愛せ、奪われてもなお与えよ、こう成るともう経済学が通用しないゆえに、其処は三次元世界では無く、五次元空間なのである。



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