見ざる・言わざる・聞かざる
三猿の教えと言うのがある。見ないし、言わないし、聞かない。それで「何」を見ないのか語らない。だからそこは各人の自由なチョイスに委ねられる。
ある人は芸能人のゴシップを見ないように努める。自分の品性を劣化させるからである。
この世には「世界情勢依存症」と言う奇妙な病がまん延している。自分の心の中が基本「不安」で出来ていると外界ばかり追いかけ廻すはめになる。他人や世間がどの程度不幸か確かめたくなるのである。だから新聞やテレビは基本「バッドニュース」ばかりになる。
現代人は情報の洪水の中で溺れている。情報を自身で取捨選択する「選択透過性」を持ち合わせていないからである。
自分の人生から一切のバッドニュースを完全に遮断して生きられる人は少ない。それが出来ないから三次元空間に留まり平凡と不運を余儀なくされる。
旧約聖書によると人間は善悪知るの「木の実」を食べたせいで可怪しくなった。悪と戦うと言う自分の中の正義感が実は欺瞞的なのである。だから本当は「悪の一切を見ざる言わざる聞かざる」生き方がベストなのである。
外界の出来事に一喜一憂することはボケ防止になると老人にテレビを見せる「間違った認知症対策」が横行している。これは老人たちの来世を悲惨なバッドニュースだらけにしてしまう。
自分の人生はグッドニュース以外受け取りません。バッドニュースは完全に遮断されて入って来ません。そう言う人が自分の人生を天国に出来る人なのである。人間は構造上「認識と言う罠」にハマり、そこから抜け出すことが出来ない。何度生まれ変わっても毎度毎度バッドニュースしか見ないループ人生を繰り返したりする。
極楽は見ないし聞かないし言わない。そう言う人生って恐らく楽しくない。だから意識的に選択透過的である必要がある訳です。