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激動する世界と不動心

自分を取り巻く外界の激震に釣られて、人々の心が揺れ動くのはごく自然な反応でしょう。戦乱が続くと、人心が乱れたりします。いや正確には人心の不安定さが、世の中の落ち着きの無さをもたらしたのです。

この世に生を受けた者は、何時か必ず臨終の時を迎えます。世界と言うのも、何時か終わりの時を迎えるのかもしれません。それを世の終わりとか「終末論」と言います。

宗教と言うのは大抵「終末思想」を内包しています。創られた物は何れ壊れ去ります。神が創りしこの世界も、何時か終末の時を迎えることでしょう。それは一体何時なんでしょうか?それは「今」ですと言われたら、大多数の人は動揺します。手ぐすねを引いて待って居ました、と言う人はまず居ません。

自分の人生は自分自身が創ったのでしょうか、それとも神様が創ったのでしょうか?この世界を自分ならざる他人が創ったのであれば、世の終わりが来ても自分ではどうする事も出来ません。

旧約聖書の世界観で生きている人たちは、今この世に何十億人も居ます。彼らが一様に聖書的終末論を「集合意識的に信じ込んでいる」ならば、この世界は一旦「終わり」を迎えるしか有りません。

今生きている79億人の内で、世界を新たに創造出来る人が一体何億人居るかと言うと非常に心もとない。自分が「被造物」即ち「創られし者」と信じ切っている限り、世の終わりを座して待つしか有りません。

世の終わりや人生の終わりに際し、「微動だにしない不動心」を持っている人は、人心の乱れに少しもたじろぎません。不安を煽られて、まんまと不安になってしまうのは、79億人の何%くらい何でしょうか?それによって、集合意識が体験する平行世界は違って来ます。

何が起きてもニコニコしていればいいんです。本当のところ、国家が滅亡しようが、世界が終わろうが別に「大した事では有りません。」だからもし仮りに第三次世界大戦とか核戦争が起きたとしても、それはイリュージョンであって、痛くも痒くも有りません。自分は日々淡々と、自身のワクワクを追いかけていれば、それでいいんです。世界が気になるのは、自分が自分に専念出来ていないのです。




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