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裁かない者は、裁かれ無い

第一章 「臭いニオイは毒なのか?」

オゾンは酸素原子三つから成る有毒な気体です。オゾンはたった0.01ppmでも臭気を感じます。

茹で卵は茹で過ぎると硫化水素臭がするので、茹で時間は短目の方が良い。

酒臭いのは、アルコールが分解されてアセトアルデヒドが出来るからです。

つまり、健康長寿で在りたいなら、酒臭さやタバコ臭さや加齢臭から遠ざかるのが良い。

汗臭い人が男らしくてセクシーだと言う人がいるが、臭い人は早死するのかも。

腐乱死体は何故悪臭を放つのか?生物は死んで死体になると、死臭と呼ばれる悪臭を放ちます。腐敗は先ず消化器系から始まります。生きているって何なんでしょうか?

加齢臭とは老化のサイン、身体の部分死なのかもしれません。

第二章 「死が存在する理由」

「死」は何故存在するのでしょうか?不老不死を妨げているのは、自分や他人を「断罪したがるマインド」なのかもしれません。

第三章 「最初の審判」

「判決を申し渡す、汝を十字架刑に処す」、死刑宣告をされなかったら、人は元来不死なんでしょうか?ライオンに食べられるシマウマは自分の運命を呪わないんでしょうか?

「食べる」とは、自分が生きて行く為の行為です。一方で、生存競争とは弱肉強食だから、「食べるとは他者の殺害でもある。」つまり、食べるとは生と死に直接関与する方法です。だとすると、食べなくなった時、人は初めて罪を免れるのかもしれません。

人間は兎角「裁きたがる。」「裁く」とは、断罪、死刑宣告、有罪判決、つまり其処に弱肉強食性や傲慢さが内包されています。だからこそ「裁く者は裁かれる」訳です。裁くと言う行為は裁かれる者を見下した行為、つまり「被告を責めています。」責めるとは、攻める即ち攻撃なのです。これは万人万物皆此れ平等と言う宇宙の原則に反しています。

裁くとは、過去の判例、つまり自分の身勝手な価値観に基づく価値判断に過ぎません。人間界の悪癖ですね。

善悪の彼岸に立つとは、他人や自分を裁かない生き方、即ち「全てを赦していく生き方」、他人を断罪しない生き方なのです。

選民意識とは、自己処罰感の裏返しです。其処で自分の罪を誤魔化す為に、罪の上塗りをしていたら多分駄目でしょう。

「罪を憎んで人を憎まず。」そんな器用なこと出来るのかなあ。アイツが死ねば、世の中平和なのになあ。それって殺意それとも断罪?

第四章 「裁かないとは赦すこと」

全てを赦して行くプロセスを神への道と言うのかもしれません。許せないアイツを何時になったら許せるのでしょうか?何万年掛かりそうですか?

過去の自分を許していく旅路を、巡礼とかお遍路さんと言います。人は自分の忌まわしい過去を、兎角否定したがります。過去の自分を断罪し、切り捨てたくなる。

そうでは無くて、「許してあげる。」つまり、断罪とか切り捨てって「否定の一種」なのです。否定の対極が肯定、断罪の対極が「赦し」なんです。

つまり、弱肉強食に内包された殺意とは、弱者は生きるに価しないと言う放漫さを含有しています。

許せない、だからアイツは死刑だ、この論理展開が恐らく「死」の始まりなのでしょう。

逆に言うと、全てを許してあげる、それは多分「愛の始まり」です。人間も何時の日にか、自分や他人を責めない、自分や他人を裁かない生き物に成れる日が来るのでしょう、きっと。

全てを許せるとは、「全肯定の世界」なのです。ノンストップノーブレーキアクセル全開の光速運転、詰まりは自分が光そのものに成っていく世界です。




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