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好きな現実、嫌いな現実。

「綺麗なお姉さんは好きですか?」 
「大嫌い!」
「ニンジンは好き?」
「大嫌い!」
「セロリは?」
「嫌い!」

好き嫌いを無くしましょうね。

「好き嫌いが個性でしょ?」
「生き地獄は好きですか?」
「嫌いです。」
「現実世界はお好きですか?」
「あまり好きじゃ無い。」
「現実と生き地獄は同類ですか?」

あなたは今、存在していますか?

存在しているとしたら、その存在状態が次のテーマに成って来ます。詰まり、極楽か生き地獄かの居心地の問題です。

嫌いとは、否定であり、拒否であり、拒絶したい現実です。

ピーマン嫌いはあの苦い味が苦手なのです。大人に成ったら好きになるかもしれません。

人間には選択の自由が有る。

嫌いなら食べなきゃいい。

でもピーマン嫌いがいつしかピーマン大好き人間に成ってもいいんです。

現実が変えられませんとボヤいていた人が、何時しか現実を自在に変えてもいいのです。

現実を好きな現実と嫌いな現実に分ける習慣を辞めて、全ての現実を大好きに成ってしまう手も有ります。

身に起こる全ての事象は、起こるべくして起きたのだから、全てことごとく受け入れる、詰まり此処では選択の自由を行使しないで、全部受け入れて生き切る。

何でそんな事をするの?

現実世界を最高最善と信じ切り、この今起きた現実こそが今の自分に最高最善のベストな事象なのだと心底信じ切り、これを受け入れて、生き切るのです。

そうすると、現実世界は選択の余地なしに、最高最善化して来て、シンクロニシティが自動運転されて人生に運ばれて来るように成るのです。

好きな現実か嫌いな現実かと、識別し判別し、選択の自由と称して選り好みして、最悪化最低化させる必要も無くなる訳です。

だって宇宙がこれこそが最高最善ですとシンクロニシティを眼前に展開させて来たのだから、逆らわず流れに任せ、そのシンクロニシティを歓喜とワクワクで満喫すれば良いのです。

その時、怒りとか哀しみは必要性を失い、忘却の彼方に消え失せます。

人生は最初から至福だったのです。  


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