見出し画像

「人間とは蛇口である 2 」、 「たれパンダ的脱力人間」

第一章 「鬼の空念仏」

「鬼の空念仏」というのがある。自分の発する言葉に魂が宿ってない。彼らは、死の間際になって急に焦りだし、念仏でも唱えてみるかと思い立つのです。

つまり大事なことは、自分が発する言葉に「疑念」や嘘をブレンドしてはいけないと言うことです。

第ニ章 「人間とは蛇口である」

例えば、地球の内部にマグマが溜まっていて、それが地表の噴出口から噴き出して来る。「芸術とは爆発だ」と誰かが言ったが、「暴発」で無くて良かった。火口から勢いよく噴煙を吹き上げる時、「山は生きている」と言ったりします。

山は生きている、それと同様に人間も生きている訳だが、何故人は生きているのでしょうか?生物だから生きているのでは有りません。生命エネルギーが体中を流れるから生きているんです。流れる生命エネルギー量の調整弁がチャクラであり、肉体面では血管を通して酸素や栄養を供給します。

人間は、エネルギー補給と言ったら液体や固体を思い浮かべるが、生命エネルギーとか宇宙エネルギーの大元は光エネルギーであり、愛であり命そのものなのです。

それでその宇宙エネルギーは、蛇口を捻れば勢いよく噴き出すわけだが、蛇口が旧式だとハンドルを回したり、蛇口を手で捻ったりします。

でも蛇口が最新式だとハンドルや手を使わないで、「意識」を使います。それは自動車も何れ自動運転になり、UFOのように「意識」で操縦するのと同じです。

だから「自分の意識」を巧みに操る技術の習得が必須なのです。

自分の体中に生命エネルギーが流れにくくするには、蛇口を締めて細くチョロチョロ流せば良い。

人間がこの世に産まれ落ちた時、前世の記憶も喪失し、宇宙エネルギーとの関係も忘れた。それで一生懸命汗水垂らして働き、出世競争や生存競争を頑張れと教え込まれた。

第三章 「たれパンダ的脱力人間」

出世もしないし頑張らないストレスフリーなたれパンダのように、ただ安楽だけを追求して生きたら一体どうなりますか?時の流れに身をまかせる生き方とは、奮闘努力をしない生き方です。働くから奴隷で有り続ける訳です。人間は支配者たちからあくせく働けと刷り込まれた。自分の人生を他人に創って貰ったらそう成ります。

自分とは何者なのか?その定義を間違った。自分とは苦労と労苦を生き甲斐にすべき存在と教え込まれて来ました。お前たちは労働者であると決めつけられたらそれを鵜呑みにして一生労働に明け暮れた。これは他人を奴隷としてこき使うのに最適な社会思想です。

支配層は民衆が創造主であることに気づかないように細心の気配りを怠りません。

さて自分が無限の生命エネルギーにアクセスしたら、蛇口をひねるだけで、無限の豊かさが噴出します。つまり努力や行動が最小限で良くなります。

人間は奮闘努力をしたかったんでしょうか?流れに逆らってボートを漕ぐのが立派な人間のはずなんです。

願えば叶うと言ったりします。つまり、役割分担をはっきりさせましょう。願うのが自分の仕事で、「願いを叶える」のは、「全能の宇宙エネルギー」の仕事と割り振ります。

「叶えまい」と「抵抗」したり邪魔をするのが、「エゴの自分」だったり「自己否定感や罪悪感にまみれた自分」だったりする訳です。

自分の願望はなぜ100%叶うのか?宇宙エネルギーは全能だからであり、自分がその全能性に「疑念」を抱かないことで、自分の願望は100%叶うしかない。勿論自分の全能性を信じられる人はそれでも良いが、実際そう言う人は少ないと思われます。

だから宇宙エネルギーとかの全能性に「任せる」或いは「委ねる」方が上手く行くと思われます。

勿論宇宙と自分が、或いは宇宙エネルギーと自分が一体化したら、叶えたのはどっちであるかなどどうでもいい訳です。

人間の仕事は、「観念を思い浮かべること」そして其処に「願望が叶った時の喜び」の感情を載せるだけで良い。

何時どうやって願望が叶えられるかは、宇宙エネルギーに任せます。

願えば叶う、其れは言い換えれば、「叶わないかも」とか「叶うはずが無い」「実現は難しい」「叶うかどうか疑わしい」と言った「邪念」「疑念」「懸念」等を自分が「想起」しない訓練詰まりは精神の修行が必要なのです。

習得に多少時間が掛かっても致し方ない。何千年も被造物やって来て、急に今すぐ創造主になれと言うのも無理がある。量子的飛躍をせねばと焦らなくて良い。今できる事をやって行く。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?