捨てられた天照、置き換えられた出雲族【俺の邪馬台国】※神担当者

中指が痛い。ググりまくりの日々でスクロールしすぎが続いてて、中指の痛みがデフォルトになってしまいました。。手首骨折の古傷かなと思ってたのですが、どうも指の付け根のあたりから痛みがきてるみたいで、右手だけむくみがひどい日があってつらめ。。しかし今日もがんばります(グリグリ)w。

で、私の今のところのサンドイッチ仮説を昨日寝るときずっと考えてたのですけどね。そうすると一つ疑問と、いくつかの辻褄合わないことが出てきたので今日はそれのうちいくつか考えてみたい。

考えるべきことリスト:

①実質九州北部(私の仮説では女王の場所)はもともと神託担当だったのだけど、ヤマト勢力に捨てられ、伊勢に移され、代わりに神託担当を出雲陣営にしている(三輪山の神々)。
②九州北部の派生陣営としてのヤマト勢力ならば、もっと鉄器があっていいはずなのになさげ。わしの仮説では、神託系=九州北部、出先機関が当初は大和にあった。
③時代が下った唐の書物には、日本と倭は別の国と書かれていることを検証すべし。
④銅鐸とサンドイッチ仮説の辻褄合わせをまだしてない。
⑤日本書紀の本伝?から、一書、二書などの相互具合を確認してない。ここにヒントあるかも。

なんです。①から行きます。

①なぜ途中から出雲族を神担当にした?私の辻褄合わせ(仮状態):
これは、単純に、裏切りなのかもしれない。最初は利害が一致だった同連合だったのだけど、出先機関を近畿におき、しばらく時間がたつと、距離のせいで意思疎通がとりづらくなってきて、ばらつきが出て団結力が乱れてきた。で、ヤマト勢力が本来は敵対していた出雲や吉備・北陸を取り込むめどが立った段階で、作戦を独自変更して、”俺らの”で統一しようという気持ちになってきた。それで、神権政治だったのだけど、神担当者を卑弥呼陣営ではなく、出雲陣営に置き換えた。これすなわち裏切り。ゆえからの三輪山。そしてアマテル(卑弥呼)は伊勢にどけた。日本書紀の崇神当たりの話。※鉄製生産と連動してる?
しかし、いずれにせよ原料は当時朝鮮半島から輸入してるので、九州は必要なはず。ちょっときゅうけい。あとで書き足す。

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おかしくない?3世紀送風管がある奈良。5か所もありますでしょ。にしては、少ない。やはり奈良では鉄器は東国に配布するために作ってたんじゃないのかなー。鉄剣出土ってどんな感じ。あ、これは②の話だったので次で。あ、でも送風管って銅の場合もあるのか。とほほ。嫌な予感してきた。

②鉄器が近畿に少ない理由はなに?私の辻褄合わせ:
出雲の勢力東方拡大を予防するために近畿に出先機関を置いたとすれば、近畿に武器がもっとあっていいはずなんです。でもどうもないっぽい。当時で最強の武器は鉄になります。鉄刀・鉄剣。みてみようか。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185006.pdf

★鉄による最初の殺傷はAC100年頃。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/14643/20141016121748966968/BA6634554X_541-551_nojima.pdf
★鉄器副葬品が出るのは、方形台状墓が多い。
以下引用抜粋:近畿=後期前葉には,尾根状に方形台状の区画をもつ集団墓において鉄器副葬が始まる。日本海側沿岸の各地に鉄器副葬が行われ
はじめる足がかりとなったようである。とくに墓壙数の少ない大形方形台状墓の中心埋葬は,墓壙規模が概して大きく,鉄製刀剣類を副葬する傾向がある。北陸でも山陰と同様に副葬鉄器,とくに鉄製刀剣類が多く出土するのは,四隅突出形墳丘墓ではなく方形台状墓であるといえる
方形台状墓=弥生時代~古墳時代はじめ、四角形の低い台状の墳丘の周りに溝を巡らした墓。遺体は木棺、土器棺などに納められ、ひとつの墓に数人が埋葬されることが多いです。丘陵の上に造られる方形台状墓に対して、平野部にあるものは方形周溝墓と呼ばれています。

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奈良から全然出てないね。。。なにゆえ。矢じりでも同じかしら。弥生時代の殺戮といえば、そして日本書紀の殺戮でも、だいたい矢なのです。出雲で殺されたアマワカヒコだっけ。とか、由比ガ浜だか鳥が浜だかも矢じり跡あり。鉄の矢じりって名前なんていう?鉄鏃か。ちょいおまち。あった↓
https://tizudesiru.exblog.jp/238349821/

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辻褄候補①無理やり辻褄合わせるとしたら、出雲が東国に勢力を伸ばす前に、鉄製品(農具工具)を売りにして、ヤマト勢力が東国をコントロール下に収めようとした。で、東国に遠征した大和スタッフは、チラシというか口伝で”鉄器~、鉄器はいらんかね~”とぐるり宣伝してきて、店頭デモとかも各集落で行って、それで、ヤマトに一回おいで、そしてブツブツ交換で鉄器と交換してあげるよと、触れて回った。そして東国や遠方から大和に続々と鉄工具・農具技術を求めて人が入り込んできた。各自に鉄製品をブツブツ交換でお渡しして、技術と物品を獲得した東国・遠方の人々は帰って行った。故に、奈良自体には鉄製品はあまり残ってないw。とか???無理がありすぎるかーーーーー。うーん。

辻褄候補② そもそも環濠集落も近畿には少なく、脅威となる部族が当初はいなかったため、武器の必要も九州ほどはなかった。九州の北部は古くから武力闘争が続いており、物騒なエリア。環濠集落の数も半端ない。武器は、必要だった。最強武器は鉄器。かつ新羅に攻撃をしかけるなら九州北部にこそ武器が必要である。ことから、近畿にはそんなに武器は送られなかった。あくまで、出雲の東国進出を阻止し、出雲に取り込まれつつある地域を奪うための基地だった。

ウィキメモ:★4世紀後半のヤマト王権による朝鮮半島南部への進出は「武器」の面から見れば、鉄器を生産する技術と資源を求めてのことであるとも考えられる。

ちょっと休憩。

ふう。何も解決してないんだけど、ちょっとこれはちゃんと資料を読み込まないといけなさそうなので今日は、あきらめて、③に行く前に、これみてくだされ、銅鐸。福田型銅鐸。出土は中国地方(広島など)で4-5個見つかってるだけのレアもの。これが例の邪視文なんだとさ。

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かくじつに邪視ですね。邪視といえば、私の過去投稿:

どーなってんの日本w。はー摩訶不思議。高句麗経由で邪視文が入ってきたってことか?そして私の読みでは、縄文からすでに伝わってたと思うんだけど、どゆことなんじゃー。大混乱してきた。次行きます。

③時代が下った唐の書物には、日本と倭は別の国と書かれている
日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地

わ→倭→倭と書いてヤマトと当て字→からの日本。ひのもと。にほん。うーんこれは多分いろいろな誤解な気がするんだけどね。毛ボーボーも倭人という認識はあったはずだし、東国のほうも全部倭種とは魏志倭人伝には書いている。ほかの部族っていったい何よ。しかし新羅本紀には、下記のとおり多婆那国について、倭国の東北1000里って書いてあるのは実際気になる。ここでいう新羅からみた倭国はつまり九州北部なのは間違いないと思うのね。そうするとそこから東北1000里ってどこなんだろ。山陰であることは間違いない。




かきかけ

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