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【俺の邪馬台国】利歌彌多弗利(リカミタフリ)と遣隋使の謎解きにトライしたけどボツになりました(←後日判断。一応記事は残しておきます)

やっと抜け毛が落ち着いてきました。ワクチン副作用だったと思うのですが、すんごい抜けた。。。一日200本くらい抜けたと思う。が、超正確な周期で来てた生理が予定よりすでに1W遅れている。。。何か影響はやはりあるんだろうなと思います(個人的感想)。

さて、昨日の続き!ひさびさに中くらいのビビビがきましたw。ちょっと強引なところがあって引き続き調べ中ですが、現時点の内容で書かせてください。

遣隋使ありますでしょ。日本書紀には、第一回目の遣隋使がなぜか記録されていないのです。もろもろのミステリーをまとめますと下記:

 ①日本書紀には第一回遣隋使が記載されていない。
 ②隋書倭国伝には記載されており、600年頃に一回目を派遣している。
  同書によると倭王はアメタリシヒコ(彦=男)で、君(妻)・太子の名は
  リカミタフリと記載がある。
 ③しかし当時は推古天皇(女性)だったはずで、大君がヒコ(男)だと辻褄が
  合わない。太子に該当する名前も見当たらない。


これらを解決できそうな、1つの解決セオリーを思いつきましたので書きます。未完成ですので、ご承知おきを。

まず隋書倭国伝を見ると、順番に、
    ★俀王阿毎多利思北孤 倭王は苗字がアメで名前がタリシヒコ
    ★號 阿輩雞彌      倭王はオオキミという称号。
    ★妻號 雞彌                        妻はキミという称号。
   ★名太子爲利歌弥多弗利   太子の名はリカミタフリ(という”名前”)

と書かれています。太子以外は固有名詞ではなく呼び名・称号で、太子だけ名前と書いてますね。

それで、まずリカミタフリって誰やねん問題を考えましたが
でもやはり、どう頑張っても太子が見当たらない。
それでおもった。アメタリシヒコってそもそも話し言葉じゃないですか。天から垂れてきた男なんだよ、というのをアメタリシヒコと言ってるので、名詞ではない。説明フレーズです。であれば、もしかして、

王妻號雞彌後宮有女六七百人
名太子爲利歌彌多弗利無城郭

結論からいうと、私はこれは一人で必要はなく、結果、”入鹿また古”と読みました。そう、
    蘇我入鹿と古人皇子です。
入鹿と古人は従兄になります。

★古人皇子 父親 舒明天皇 × 母 蘇我法提郎女(入鹿の父蝦夷の兄弟です)
★蘇我入鹿 父親 蘇我蝦夷 × 不明?

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宿題:漢文で、ウェイの用法を確認する。名詞マタ名詞という用法があるかも確認する。
    ★名●●爲▽▽   ●●の名をもって▽▽とする。
       ★●●又▽▽   ●●または(そして)▽▽
これらの用法を確認したし。爲はたとえば爲吾国なんか、名詞としても使われてるんだが、たとえば爲利歌で入鹿になれたりしないだろうかと思っている。爲が”為す”としてしか訳せないのかどうか、なしじゃいかんのか文法を確認したし。
※現代中国語辞典だと、動詞 名 ===名前を…と言う.
用例 这位同志 姓李名大刚。=こちら姓を李,名前を大剛といいます。
とすれば、名で名前は何々という、であれば、太子いるか、太子ふる、という太子続きの名詞としてよめば、太子入鹿という=名太子爲利歌になれるんだが。中国語の曖昧さが憎い。ただ、関西アクセントだとすると、ぃるかになるので、入鹿の”い”がききとれずに”るか”になったとしてもおかしくはないと思うんだよね。
ついでに言えば、入鹿のもうひとつの名前は大郎あるいは太郎。たいろうと読む。意味としては太子になる。

そうするといろいろ辻褄があってくるのですね。まず、古人はのちに次代天皇として入鹿に推されています。入鹿と古人は従兄です。蘇我氏の血がいっぱい入った息子たちになります。

もしこの太子の名がこの2名であるとすれば、これを中国に述べた本人は、蘇我蝦夷かあるいは馬子かもしれないがとにかく蘇我派閥があってそれが第一回使者を送ったことになる。第一回600年での遣隋使出来事。

※余談メモ:入鹿は通説だと11年生まれということですが、実際のところは不明だそうですので、600年には生まれている可能性もあります。

     定説 
      馬子  55年生まれ
         蝦夷  85年生まれ ※85年には馬子病気になってるぞ。
      入鹿  11年生まれ

このように解釈すると、日本書紀がなぜ、第一回遣隋使( 開皇20年(600年))を『日本書紀』に記載しなかったかの謎が解けてくるのです:

遣隋使の経緯をまとめると

 ★600年 第一回遣隋使 倭王”あめたりしひこ”が使者を送る(天皇の名前は記載してないのがミソ)。このときリカミタフリや名称の説明をしている。さらに、兄・弟(神託による政治体制)についての説明もしている。 日本書紀に記載がない。わりと現状の日本の政治体制を揶揄しぎみ。で、中国さんは”それは直さないといけないね”と言いまして、もちろん日本は中国の政治体制は知ってるわけですから、承知の上で言ってるわけですね。つまり天皇の今の政治体制をやや、自虐というか少々客観視して揶揄してるニュアンスがあるのが一回目。一回目は卑下傾向

 ★607年 第二回遣隋使 中国を怒らせたという国書をもって小野妹子を送っている。これは日本書紀にも記載ある。さらに返礼師裴世清も来日した。この時の使者は一回目とは真逆に、日本すげーということでドヤっています。そして中国さん不機嫌になっちゃってます。二回目はドヤ傾向

ということで、第一回目と第二回目のコントラストが、すごいんですもともとw。ちょっと違和感はあったのですもともと。これも蘇我氏主導で第一回目を送ったとしたらすべて辻褄があってきます。仏教を国政の軸にしようとしたのも蘇我氏がいいだしっぺ。そして、ヤマトの漢氏等、中国系と仲良かったのも蘇我氏。さらに古人が、いっしの変の時、入鹿が暗殺されたときになんといったか覚えてますか?下記のように言いました:

古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父の蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。

この時の状況としては三韓が日本の朝廷に貢ぎ物を持ってきてて、その挨拶の催しの際でした。この発言は、古人が挨拶に来てた韓人が入鹿を殺したと勘違いすると解釈することもできますが、そうするとなぜ日本書紀はそのことを書かないといけなかったのかという疑問が出てきます。下記見てください↓父蝦夷自害の様子の日本書紀の記載:

十三日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、全ての天皇記、国記、珍宝を焼いた。船史恵尺ふねのふびとえさかはそのとき、素早く焼かれる国記を取り出して中大兄なかのおおえに奉った。


なぜ正史を焼く必要があったのでしょうか?なんで正史が天皇家には保管されていなかったのでしょうか?なぜ、蘇我氏の邸宅だけにしかなかったのでしょうか?さらに故意に焼くって、いまわのきわにそんなことが一番に頭に浮かぶっておかしくないでしょうか?実際、焼いたのは、中大兄の方だったのじゃないでしょうか?それを蘇我氏が自ら焼いたということにしたんだと想像できます。これは完全な想像。

蘇我氏が権力を持ちすぎたので恨まれて殺されたということですが、実際中臣(のち藤原)に入れ替わっただけで、実際天皇が実権握るという方向にはいかなかったわけで、実質、執政実験持つ人の争いなわけでしょ。

あたまぐちゃぐちゃになってきた。私、実はまだ推古天皇期のところまで読んでないのです。ちゃんと読むわまず。しかしこの隋書視点で読んでいけば、第一回は、天皇から派遣されて行ったわけではなく、蘇我氏がわりと独自判断で使者送ったんじゃないかなーと思うわけ。それならばいろいろ辻褄があうわけ。

で、まだ解決してない重要なポイントとしては、実際蘇我氏は天皇に置き換わって自分が天皇になろうとしてたのかどうか、ということ。当時女性天皇だったはずなのに、倭王と男として紹介しているのは、それは①自分が王ということにしたかったのか、あるいは②後世がいじくって推古天皇の時期を前倒した。あるいはそもそもいなかったとかある?

どっちなんだろうね。日本書紀では、逆賊的扱いにされちゃってるんですが、この隋書の第一回使者の部分を日本書紀風に読めば、たしかに蘇我氏は天皇を自称してたということになりまする。¥

蘇我氏って仕事できすぎた、ということなのかなと思うんですけどね。蘇我氏の先祖って誰だっけ。武内宿禰だってさ。忠臣じゃないですか。

そして同時に思うのは、聖徳太子あらため厩戸王ってそんなに仕事できなかったんじゃないかと思うのねw。そのあたりこれから突き詰めていきたい。いつになるかわからんがw。

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