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びびび案件:きづいちゃったかも(テレコだったんだ!!)【俺の邪馬台国】

※しかしあついねー。今日はまっぴるまに用事で外出したら本当に死ぬかと思った。ゆでだこ状態。そしていま汗臭さが超人的。おなごとは思えぬこのカホリに一抹の哀愁を感じる日曜日。来週早々に36度予報だけどわしお風呂39度設定なので風呂とほぼ変わらねーじゃねーか。余談は早々に切り上げて、、、

さて、

久々にちゃんと書きます今日こそ。やっぱ平日だと集中力がとぎれとぎれになって書ききれない。

あのですね、昨日寝るとき考えてて”はっ”と気づいちゃったのですが、ナ国まではほぼ確定して私もこれに異論はない。ナ国以下の記載は下記:

【魏志倭人伝】
奴国:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
不彌國:東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
投馬國:南至投馬國水行二十曰。官曰彌彌副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

そして現存しているこの魏志倭人伝は複写。

一番信頼度が高いとされている刊本は、南宋時代(12世紀)発行の紹興本(しょうこうぼん)・紹煕本(しょうきぼん)



わしな、誤記説取る人って証明のしようがないから嫌いだったのだけど、上記、書き写すその瞬間を想像してみると、東・東南・南・東、ってずっと書き続けてるわけ。後半に来ると目がちかちかしてあれ、南だっけ東だっけ、となり、テレコになっちゃう可能性は実際結構あるわよね。で、上記②③が入れ違えて書いてたとすれば、めーちゃめちゃ、驚くほどにすべての辻褄合うが合うことを発見してしまったのです。それが故意なのか、あるいはただの誤記なのかは今のところ不明ですが下記に説明していきます。

A:不弥=宇美
不弥っていうのは私のこれまでの感覚では、おそらくウミと読むかと思います。故に、奴国のすぐ南にある、宇美がこれに当たる可能性がかなり高い。100里って書いてあるし。東と南を②③で入れ替えるとまったく矛盾してないどころかぴったんこ。さらに、魏志倭人伝に書いてあることは、故意に日本書紀でいうところの”仲哀~神功皇后”で、魏志倭人伝を意識しまくった物語を書いているのが顕著。ゆえに魏志倭人伝の地名と連動してある道程を行ってる可能性が高すぎてどうしましょ。なんです。御覧ください。神功皇后の宇美エピソード、しっかり日本書記でカバーされております。

日本書紀:
皇后は新羅しらぎから還られた。
十二月十四日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。
時の人は、その産処を名づけて宇瀰(福岡県宇美町)といった。



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で、もう一度出してくると

不彌國:東もとい南行至不彌國百里。
投馬國:南もとい東至投馬國水行二十曰。

③はね、陳寿のオリジナル原本としては東ってちゃんと書いてた可能性高い。下記御覧ください↓宇美っていうのはやはり海です。間違いない。弥生時代の福岡の沿岸は下記のとおり。これと宇美を照らし合わせてみると。。

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わからんがおそらくたぶん絶対宇美は海に隣接してたのだろう。で、ここから③南もとい東、に出発したわけです。船で。

奴国までの情報は、魏略から引っ張ってきていて、あとは陳寿が足した可能性あり。それが故意かどうかは不明だけどとにかく、いっかいここで区切って、新たに読み直すとすべてが辻褄があってくる。そうすると投馬國は以前私が書いた通り、但馬あたりに到着できる。

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私がなぜこう思ったかというと、以前書いた通り、三国志研究者さんによると、故意に、南の方に日本があるように書き換えてるということで、私もそれを結構信じてたのね。そこまで疑わないといけないのかとw。しかしですね、投馬國の次は邪馬台国なのですが、下記見てください。ちゃんと南って書いてあるのです。だとすれば、故意に書いてたという路線は結構少なくなってくるんじゃないかとふと疑問に思い、その視点で考えると②③がテレコになってればすべて辻褄が合うんだと思ったのね。




④南邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。



つまりまとめると、やはり陳寿が書いたときの邪馬台国は、近畿になる邪馬台国という認識で書かれてるのは間違いがなく、かつ陳寿が意図的にねつ造したとすれば、それは③の水行日数嵩増し罪および④の水行陸行日数嵩増し罪の2つだけだと思う。陳寿の罪状は以上の2つで、”方角ねつ造罪”はたぶん冤罪。方角でやらかしちゃったのは模写した人か、最悪でも陳寿のうっかりポカミスと思う。故意ではない。

理由 捏造だとすれば宇美(不弥)を東に書き換える理由がまったくない。

ほんとね、全部書いてるんですよ日本書紀に。私の第六感がそう言っている。間違いない。信じてくれ。

そしてじゃあ、そのほか近傍の国々はどこかと思いますでしょ?それがですね、さっきも言った通り景行・仲哀・神功皇后あたりに全部書いてあると思うのね。なぜならこのあたりのエピソードは明らかに魏志倭人伝に寄せていくために書かれているのです。以下は日本書紀の神功皇后エピソードの終わりに、申し訳なさそうにこっそり実際記載されてる一文ですw。明らかに神功皇后=卑弥呼ではないのですが、書いた人の意図としては、これで魏志倭人伝の記述内容をカバーしたかったのですよね。だって日本書紀って中国パイセンに向けてのラブレターという意味あいもわりと大きいからw。

日本書記 神功皇后期の末尾
魏志倭人伝と、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢こうを持ってきた。太守の鄧夏(とうか)は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。四十年、魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。四十三年、——魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。



であれば、この手法であまた近傍国も判別できるはずなのです。

まず、あまた近傍国は、魏志倭人伝だけだと邪馬台国起点に見えてるけど、実際は陳寿のパッチワークであって、また九州に戻ってこないといけないのね。つまり日本書紀神功皇后・仲哀でカバーしまくってるなぞの地名列記ありますでしょ。あれで近傍国をカバーしてるはずなのね。全部残ってない逸文としては、魏略のほかに、広志もあり、それには下記のようにかかれております:

  広志逸文:ここあとで写す

ですので、近傍国列記は陳寿オリジナルでない可能性高し。これ、探すの大変でして。。

近傍国一覧:斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国



昨夜見つけたのは下記(真っ暗闇の部屋で布団かぶってスマホでぽちぽち地図を漁ってる自分って怖いな~とおもうんだけど、一番集中できる時間帯なので仕方ないw):

★十七年春三月十二日、子湯県こゆのあがた(宮崎県児湯)にお出でになり、丹裳小野にものおのに遊ばれた。そのとき東方を望まれ、お側のものに言われたのが、「この国はまっすぐに日の出る方に向いているなあ」
それで、その国を名づけて日向という。歌って”なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。大和は最も優れた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。命の満ち溢れた人は、平群へぐりの山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。

※ちなみにこのくだり、邪馬台国ってのは大和でして畿内にあるんですよ!ってことを猛烈アピールしておられますねw。※これについては最大難問なので一番最後までとっておく。。外堀から埋めてく作戦に切り替えたのだw。

で、この子湯ってのは、下記でいうところの呼邑かと。たとえば殷は”邑”ゆう、という小集団で組織されており、邑はやはりユウと読むべしかと思うので、こゆになれる。

近傍国一覧:斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

だとするとやっぱりずっと気になってた近傍国として大量に出てくる”蘇”っていうのは阿蘇山近辺の蘇になれるのでこれも私の予感がすべて辻褄があってくる。下記が現在の児湯郡↓。今もコユっていう名前なんだからすごい。
児湯郡は飛び地になってるけど、かつてはこのあたりいったいが子湯=呼邑だったのだとおもわれる。たぶん。

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というわけで、みてください。コユの右と左を↓

近傍国一覧:斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国蘇奴国、 

呼邑国

華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

ね?

コユにまつわりつくようにしてある蘇の字。これがどっちからどっちに流れた記載かがわかれば、探す場所のアテがつくんですよねー。もしかすると 好古都国は菊池市(熊本)かもしれないけども、ちょっとうっかり間違う可能性高いので、ここからは慎重に行きたいと思います。

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さがすぞー!また続報します。

今日はここまでご報告。

   

   

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