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ドラゴンボール的三角縁神獣鏡の解釈(今はまだ思い付き段階)【俺の邪馬台国】

女系天皇ってそんなにだめなのかなー、ちょっと本当にわからない。。女系で全然いいと思うけど、なぜなら、①DNAはちゃんとひきついでる。②これから皇室内部から、皇位放棄現象って出てくると思うんだよね。外部との接触ができるようになった現代において、やってらんねーとか、大恋愛しちゃったとか、そういうことが起きてくると思うんですよ。たとえばイギリスなんかでは王位放棄した王がいましたでしょ。そうなる前にあらかじめ自由度を上げていく必要あると思うんだよねー。③小室氏血縁が皇統になる可能性あるのは拒絶感がすごいw。④民間から皇室に入った女性、みんな精神やられてる。男産めの重責とバッシング。民間の女性だったのに。そういうの、もうやめませんか。。奥様になる女性が本当にかわいそう。女でも男でも産めば楽になれるようにしてあげませんか。

さて、三角縁神獣鏡、一昨日黒塚古墳の全画像見てて思ったこと:

★もともと、図柄が重要と思ってたけど違う気がしてきた。あまりにもばらっばらw。しかも似てる。似てるけどバラバラでそんなにこだわった感じではないように思えてきたのね。
★同様に刻まれた文字(帯)も大して意味がないのではないかと思ってきた。
★同はん、同型も大して意味を持たないのではないかと思った。ちょっと調べようとおもってあたってみたのですが、どうやら、ランダムな紐づきかたしかしてないみたいなんです。

背面の図柄は全体的にコレクション視点では、あんまり意味を持たない@三角縁神獣鏡。な気がするのです。銅鏡そのものに価値があって、中身は大して意味ないと。となると、数こそが大事、ということになりますでしょ。基本的には、品質よりも図柄よりも文字よりも、数が功績を顕しており、たまにもしかするとでっかいやつは、でっかい集落を配下に置いた褒美的にでかいの配った可能性はあるかもw。しらんがw。今はただ思い付きで書いてるw。

それで、私の思い付きアイデアですが、

①銅鏡はドラゴンボール的コレクションだった。
②開始時は、まず配下に納めてる集落の個数分三角鏡は配布された。さらに勲章として、新たに配下に納めると、ヤマト政権から新たに1枚、2枚と、そのたびに追加配送されたのではないかw。その鏡の枚数こそが、権力の証となっていて、墓までもっていきたい生前の功績を象徴した。だから墓に全部埋める必要があった。
※まだ私の想像でしかないけど、魏志倭人伝の銅鏡100枚は最初から図柄ばらばらで到着。もしかすると数枚くらい三角版入ってたかもしれないけど、100枚のうちほぼほぼ、違った。そして制圧がうまくいきすぎてすぐにたりなくなって自作増販した。
③三角縁神獣鏡配布システムではほう製(国内模倣品)か舶来品かどうかさえあんまり関係ない。たりなくなったので自作したということかと思う、あるいは初期から模倣して自作だった可能性もあるとは思う。ただし、それ以外の銅鏡については、海外との交易許可のあかしだった可能性はあるのであとで調べる。

んだと思うんですね。たとえば下記みていただけますか。下記画像はこちらからお借りしてます:http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

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これ、数えると、33都道府県になります。国々の割り方は今と大して変わってないと主観で判断するとw、これ、黒塚古墳の枚数と一致するのです。実質33枚ですので。それで思ったんです、

 ★魏志倭人伝の通史と交流あるのは30余か国と書いてある※けどこれは関係ないかも。

 ★黒塚古墳はちょうど33枚出てる(1枚を除く)。※画文帯神獣鏡1、三角縁神獣鏡33

だいたいマックス持ってる古墳が33、そして32(京都)っていうのは何を意味してるんでしょうか。となると、大本は統治してるクニの枚数分銅鏡バッジを持っていて、地方は、その首長が配下においてる、そして新たに配下に置いた集落の枚数分、銅鏡をドラゴンボール的に獲得してたのではないでしょうかw。ほれ、軍隊とかでよくつけてるバッジあるでしょ。業績の分だけバッジもらえるやつ。あれのノリ。

つまり、地方においては首長が死んでお墓に入れるときに、”この人は7集落を束ねた偉い人でしたー”ということで、その枚数自体が権力の大きさだったのではないかと思うのですね。奈良県内の解釈は難しいのだけど、家臣(重役)には、全国統括将軍、みたいな感じで全勢力範囲国分の枚数を支給した可能性はあるんだと思う。ただの主観だよ今現時点では。

ただの主観なので、いまからその線で見ていきます。たとえば、どこみようかしら。その前に、下記も一応引用させていただきます:http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

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わかりやすいところいくと、淡路でしょうか。淡路はきっと1枚しかないはず。あった↓。1枚だね。淡路は1枚であるべきだと思うんだよね。

コヤダニ古墳からは、漢の国(今の中国)から伝わった「漢鏡」という鏡の1種である、「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる直径22cmの青銅製の鏡が淡路島で唯一出土しました。https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=872


あとはどこあるだろう。わかりやすいところ。。黒塚古墳以外に30枚以上出てるところが京都にあるので見て見ようか。



椿井大塚山古墳 当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。それ以外には三角縁神獣鏡より少し古い内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面が出土し、総計36面以上の鏡と武具が出土した。
 被葬者:小林行雄、田中琢ら幾人かの研究者は被葬者にタケハニヤスビコの名を挙げている。他方、塚口義信は天皇に討伐された敗者にしては古墳の規模が大きく副葬品も優れているとして、タケハニヤスビコ的な人物ではなく、『記紀』に記される日子坐王伝承のモデルとなった人物こそふさわしい、と考察している。

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ばっちり初期の撥型だね。で、これがまたあいまいなんだけど、

①黒塚古墳の年代           4世紀初頭-前半
②椿井大塚山古墳の年代 3世紀末

なんですね。被葬者はどっちも不明。日本書紀で該当しそうな人を見て見ると、箸墓古墳被葬者であるやまととそなんとか姫の箸墓エピソードの直前に、山城についてのエピソードが挿入されている:



大彦命(4道将軍で、地方制覇のため派遣された4人の皇族の一人)は和珥の坂(もしくは、山背の平坂)に着いた。中略
大彦と、和珥氏の先祖彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
そのとき、忌瓮いわいべ(神祭りに用いる瓮)を和珥わにの武録坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そして、官軍が多数集まって草木を踏みならした。それでその山を名づけて奈良山とよんだ。また 奈良山を去って輪韓河わからかわに至り、埴安彦と河をはさんで陣取り挑み合った。このことから、当時の人は改めて、その河を挑河いどみがわと呼んだ。今、泉河いずみがわというのは、これが訛ったものである。
埴安彦は彦国葺に尋ねた。
「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」
彦国葺は答えた。
「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから、義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」
中略 胸に当って殺された。その部下たちは怯えて逃げた。
それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢れた。
そこを名づけて羽振苑はふりその(屍体を捨てた場所。今の祝園)という。

だとさ。大彦命=第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。

安倍氏=孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍」と称する。

大彦は、こしの国、北陸へ派遣された将軍。でもなぜか下記のとおり関東の刀に名前がある:

埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)には銘文があり、その銘文に見える人物の「意富比垝(おほひこ)」を大彦命に比定する説が挙げられている。順番:意富比垝 →多加利足尼 →弖已加利獲居 →多加披次獲居 →多沙鬼獲居 →半弖比 →加差披余 →乎獲居臣(おわけ) ※だいたい西暦471年ごろのはなしらしい。

うん?この椿なんとか古墳って、大彦ちゃいますノン?大彦の墓ってどこ?比定はないらしい。天皇じゃないのに32枚も三角鏡もってるって、相当ブイブイ集落を配下に置いてて、かつ皇族でないといけないでしょ。そうすると時代的に考えれば、景行天皇・崇神天皇・モモトトソ姫のあたりに出てくる、皇族将軍系しかなくない?北陸に派遣されて、最終的に余生は帰ってきたんじゃないの?知恵袋で聞いてみるw。最近すぐ知恵袋で聞いちゃうw。おかしな回答いただくのはちょっとめんどくさいときもありますが、ちゃんとした回答くれるひともいるので、よいよいw。

それで、続き。祇園山古墳の場合。わしはこれが女王の墓だと思っているんだがな、全部盗掘にあってるぽいのだけどな、

祇園山古墳:3世紀中頃 近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)および変型方格規矩鏡があるものの、詳細な由来は不明である。


1枚か。。3世紀中頃に三角縁神獣鏡。しかも方墳(中心部楕円)。前方後円墳ではないことから、同じ3世紀中ごろでも箸墓よりはこちらが先の可能性は高い気がするんだが。

ちょと外出@仕事。。帰宅後また書きます。

帰った。もう10時過ぎちゃってる涙。頑張ります。落ち着け焦るなわたしw。

どうやったら、数が大事ってこと証明できるだろう。他の地域見て見ようか。なかなか古墳事の枚数って見れないものなんですよ。県別はあるんだけど、違うのね。それはヤマト分しか意味ないわけで。

そうだ。魏志倭人伝の邪馬台国の重鎮4名いたのでみてみよう。

南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。女王が都とするところで、水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。


日本書紀はこれにすり合わせていってるはずだからこの4名もどこかにいるはず。どこじゃ。

4道将軍=大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと。本名「ヒコイサセリヒコ」)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

伊支馬(いきま)  

 弥馬升(みましょう) しょう、ほかの例からは”さ”とも読める可能性あり。みます、みまさ、みまし

弥馬獲支(みまかくき) 
かくきじゃなくてワケだと思う。とすると、みまワケ。崇神の嫁は御間城姫ミマキヒメ。崇神の別名は御間城入彦五十瓊殖天皇ミマキイリビコイニエノスメラミコト(開化天皇と伊香色謎命の間の第二子)。

阿倍臣の先祖である武淳川別タケヌナカワワケ。ワケしかあってないな。

奴佳鞮(なかてい) これは中臣と思うんだわ。ぬなかわけという線もある。

ごめん。あかんわけわからなくなってきた。明日表にして整理してみます。

昨日これぽちっといた↓早くこないかな~w。

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memo なかとみ は臣をとると、なか。ナ国。那珂郡。なかとみ。天鹿児弓(あめのかごゆみ)。あかん。

以下捨て。



で、おいといて、下記みてください。これも上記リンクと同じ邪馬台国研究サイトから引用させていただいてます:

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ちなみにあきらかな舶来鏡はこの邪馬台国時代には奈良にもないようです。http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

通説では三角縁神獣鏡の作りは、精巧なものが中国製、雑なものや鋳型が見つかってるものが仿製鏡(国内模倣品)なんだって。

イヤー違う気がするんだが。

この表を見る限り、中国史書に書かれてる銅鏡100枚には三角縁神獣鏡は入ってないと考えるのが自然、あるいは数枚あっただけ。舶来鏡を流用して(鋳型をとって、三角縁に作り直した?)完全国内生産だった可能性あって、中国系の人が作った分が舶来品に見えてるというだけな気もしますよね。詳しいことはしらんが。








メモ:崇神天皇・景行天皇・箸墓古墳の3つの古墳って、なんで同じ方向向いてるの?三輪山の方向いてるのかと思ったら、三輪山は画像右下なので、ずれてるんだよね。真東向いてるということなのか?どこむけてるんだろ。。

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かきかけ。ねね、どーでもいいんだけどさ、ウィキに出てる古墳情報あるでしょ。あれのマップが、えらい間違ってるんですけど誰か直してあげてくれないかw。あっちゃこっちゃ間違ってると思うのね。たとえば箸墓古墳↓場所、間違ってないか?wあってる???


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かきかけ

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