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魏志倭人伝の邪馬台国重鎮4名、解けたかもしれない(ドンピシャ大伴・物部・中臣でビンゴした!)ほか

お、noteルビ振れるようになったのね!!いいね!!もうちょっとフォントの色とか太さとか大きさの自由度があがるといいな。あと改行すると行間が広くなりすぎる@PC、ので、シフト改行で行間詰めるとフォントサイズやボールド設定がそのパラグラフ全部に反映してしまうのが結構不便w。小細工できるようにしてほしいかもですw。あとアンダーバーもできるようにしてほしいですw。あと写真のレイアウトももうちょっと、、とか言ってると普通のブログみたいになってくるからよろしくないのかしら。※なお、結局下記どこにもルビ使ってないです。日本書記はとくにお名前にルビあったら読みやすいのでいいのだけどめんどかったw。

さて、今日は銅鏡のつづき書きたかったのですが、それ以上にいっぱい気になることが出てきていてどこから行こうか。短くて済みそうな順に行く。なお、下記①よりも、②(魏志倭人伝の重鎮4名がわかったかもな件)を読んでほしいですw。時間ない方用にオチだけ先書いとくと

今日のオチ:魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の重鎮4名のお名前は、先祖系大伴オオクメ氏、物部氏先祖ウマシマジ、同ご子息、そして中臣氏の4名だったのだと思う(日本書紀より考察)


①後漢書に”東”て書いてある件

後漢書は魏志倭人伝より後に書かれた正史で、魏志倭人伝(三国志)から流用して書いてるんです。なのに、狗奴国の方角が東って書いてあるんです。どういうことでしょうか。可能性としては①後漢書が誤記した②後漢書が写し取ったのは原本に近い魏志倭人伝だったので、正しく写し取れていて、魏志倭人伝の現存写本の方が誤記している。③そのほか時代が変わって場所も変わったので変えたw

というわけで知恵袋で聞いてみました。魏志倭人伝の写本状況について。

写しと版本5種類。紹興本しょうき本が有名。宋の時代の物が最古。
4部が邪馬壹国、1部が邪馬一国。邪馬台国は魏志倭人伝を引用した後漢書などで出てくるが、卑弥呼は引用されていない。

後漢書の狗奴国が東の件はどうなんだろ。このかたに追加質問してみます。またあとで回答いただけたら書き足します。

後漢書 狗奴国描写箇所:
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 
女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至るみな倭種といえども女王に属せず。

魏志倭人伝の原文も見て見ましょう:

魏志倭人伝狗奴国描写箇所   280年代成立
①(周辺国列記の後ろ)其南有狗奴國 男子爲王其官有狗古智卑狗 不屬女王 
②其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
後漢書 狗奴国描写箇所: 430年代なかば成立(?)
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 

狗奴国の位置がめちゃめちゃ揺れてるでしょ。後漢書では女王国というときどこを指してるかというのが後漢書の、前文につづく下記一文をヒントにできます。

女王国より南、四千余里で侏儒国に至る。

侏儒国は明らかに種子島ですので、後漢書では女王国というとき、九州北部が起点となってるとなる。とすると、狗奴国は、やはり出雲島の山陰あたりとなるのですね。ゆれがすごい。おそらく後漢書の方がより正確に、ミスなく、あるいは操作なく書いてる気配がします。あるいはやはり、狗奴国というのは、一か所を指すものではなく、毛のクニであることも成り立ちます。毛族が首長のクニとは基本的に敵対しており、それが九州南部にもいるし、出雲にもいるし、ということもできますよね。やはり!

②長髄彦の”君”がニギハヤヒの件からみる、魏志倭人伝の4名重鎮。解けたかもよ!!!

長髄彦というのは、神武天皇東征で近畿に到着したとき、そこにいた既存の部族の主張のお名前です。神武の兄弟は、初回戦闘でこの部族に殺されちゃってまして、結構強い。結局リベンジ時に神武一派はこの長髄彦をやっつけるのですが、そのときに長髄彦はこのように言います:

”ニギハヤヒが先に天から船に乗って居りてきて、俺の妹と結婚した。できた子の名を可美真手命(うましまで※後述します)。なので俺はニギハヤヒを君として仕えている。彼も天孫だというのに、天孫は2人いるのかい?”

とのことなのです。天孫の証である矢などもちゃんと持ってるわけです。それで神武も、”確かに天孫で間違いない。天孫といってもたくさんいるのじゃ”みたいに返すんですねw。このとき神武さん絶対苦笑いしてたよねw。ニギハヤヒの血統を見て見ましょう:

複雑なので簡単にいうと、
  ①高皇産霊神による、”やっぱり天孫が中つ国統治しろ”命令
  ②指令受けた人=天忍穗耳尊
       ※ニニギのパパ。指令拒否して息子に行かせると言い出す
       ※ニニギのパパはなんと実父はスサノオ(出雲に追放済)です。
        あまてるちゃんが養子にもらったのです。
  ③実際下った人=ニニギ
  ④ニギハヤヒ=ニニギのパパ(②)の兄。この人が先にこっそり近畿に入ってたwそれの家臣が長髄彦。ニギハヤヒも実父はスサノオになります。

で、このニニギのパパであるアメノオシホミミと、その兄ニギハヤヒ。この兄弟は、なんと、パパが素戔嗚尊スサノオです。あまてるちゃんが養子にもらったのですね。あれルビどうやってつけるんだ?w

混乱するでしょー。私的に

  ★アマテル=卑弥呼
  ★スサノオ=出雲王のモトで、
     もしかするとスイショウ(奴国王)系統かもしれん(未確定)。

国津神が親だけど養子になって天孫の兄弟。
 その兄が先に近畿に天孫降臨してて、
  その弟があとから神武東征して、兄陣営をやっつけた。

やっつけ方が又すごくて、長髄彦は、自分の師匠であるニギハヤヒにころされちゃうのです↓

饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。

ねねねねね。これさ、やっぱ高皇産霊神って中国に設定されてそうじゃない?なにせこの日本書紀というのは中国様にご機嫌伺いする要素が盛りだくさん仕込まれているのは間違いなく、中国様が中つ国を統治しろ!という命令を天孫にした、というのは、ちょうど私の”サンドイッチ仮説”とぴったり合うのですよね。で、かつ、ボディー名称がついてるお名前は、在来の縄文濃い部族の傾向がありますので、長髄彦もその一部であって、となるとスサノオは尻毛があるけれど、一応天神系が元になってるわけで、結局日本書紀のいいたいのは、アマテル系もスサノオ系も別格の中国様のおかげで生まれた神々しい部族。それが、在地の毛人たち(上記にいう”天神と人とは全く異なるのだ”という価値観)を統治したということになるわけよ。そのように仕込むと中国さんが読んだとき、ふむふむ、とご満悦できるのよ。天の神であるあまてるちゃんも高皇産霊神のいうことは聞くしもべの設定なのよ。実際はしらないよ。日本書紀の設定としてすべては中国様のいうとおり、にしてあるんだと思うんだよね。

今一度整理すると

  スサノオ血統は、山陰を精力に納めつつ、
  近畿の方にも勢力伸ばそうとしていた ※同笵銅鐸
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

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天に養子にもらわれたニギハヤヒだが、もともとはスサノオの子。こっそり天孫して、抜け駆けして出雲勢力の一員として奈良に降臨。ちゃくちゃくと近畿圏への勢力拡大が進んでいってたvia銅鐸配布。天孫ということにしとかないといけないので、実際は養子などではないのだけど、のちに形はやまとにして、実際は共同統治となるのでそういうことにする必要はあった。

長髄彦を殺したニギハヤヒ。彼は神武にかわいがられまして(兄なのに!)、結局物部氏になりました。

ニギハヤヒの子は宇摩志麻遅命=うましまぢor可美真手命(うましまでのみこと)、天香具山命、熟穂屋姫命

うましまで、の記載は、
可美眞手命【日本書紀】(うましまでのみこと)
宇摩志麻遲命【古事記】(うましまじのみこと)
宇摩志麻治命【先代旧事本紀】(うましまじのみこと)
味間見命【先代旧事本紀】(うましまみのみこと)
宇摩志摩治命【新撰姓氏録抄】(うましまじのみこと)
味眞治命【新撰姓氏録抄】(うましまじのみこと)
宇麻志摩遲命【新撰姓氏録抄】(うましまじのみこと)
于摩志摩治命【新撰姓氏録抄】(うましまじのみこと)
味嶋乳命【新撰姓氏録抄】(うましまちのみこと)

なお、日本書紀で後に出てくる百済人味摩之(みまし)。このときの味は”み”と読んでる。

味は日本書紀にて、”ぅま”にもなれたし、”み”にもなれているという事実がまずある。中国人は弱音が聞き取りづらかった形跡がある。たとえば、つしま=投馬国【つまこく】になっており、弱音である”し”が聞き取れていない可能性。かつ日本語側も、うまい=んま、んまい、など”う”はある特定の条件で”ん”になることもある。

ここで昨日だした魏志倭人伝の邪馬台国の重役4名の名前を出します:

官有①伊支馬、次曰②彌馬升 次曰③彌馬獲支 次曰④奴佳鞮 

私、これは、神武あたりで”特に目をかけた”家臣に該当してるのかなとおもうわけで。

目をかけた人
②また、大来目オオクメを畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。

①伊支馬(いきま) 
大来目@日本書紀 ーー>大伴連配下で合う。

日本書紀
また、大来目オオクメを畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。
※おおくめさんはいわゆる、神武東征時の戦闘群の統率者です。
天皇は論功行賞を行われた。道臣命ミチノオミノミコトは宅地を賜わり、築坂邑つきさかのむらに居らしめられ、特に目をかけられた。
彼もともと日臣命で、大伴連の先祖です。
※私の所感:もともとの音の語源としては、いこま・いきま、は、行く+やまとで、いくま、生駒山・来目は来る大和にみたいなかんじなのかもね、しらんが。ただの雰囲気で音がそういう感じはする。で、久米氏は、どこかの段階でほろびて、大伴氏がかわりに管轄したっぽいのね。この時点では久米氏だったのだと思う。

②弥馬升(通説読み:みましょう・みまじ) 
可美眞手命うましまじーーー>物部氏
※私読み解説=弥(んま)馬(ま)升(じ) んままじ=弥馬升 
日本書紀
天皇は饒速日命ニギハヤヒノミコトが天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。これが物部氏の先祖である。
※彼の子が可美眞手命。その子は味饒田命 【先代旧事本紀】 (うましにぎたのみこと); 味瓊杵田命 【新撰姓氏録抄】

ふう。。あとは、②椎根津彦シイネツヒコを倭国造やまとのくにのみやつことした。③弟猾オトカシに猛田邑・・猛田の県主(宇陀の主水部もいとりべの先祖)

中臣もいるはずなんだよねー。あ、いた。

筑紫の国の宇佐に着いた。すると宇佐の国造くにのみやつこの先祖で宇佐津彦ウサツヒコと宇佐津姫ウサツヒメという者があった。宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮)を造っておもてなしをした。佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮)を造っておもてなしをした。このときに宇佐津姫ウサツヒメを侍臣の天種子命アマノタネノミコトに娶あわされた。 天種子命アマノタネノミコトは中臣氏なかおみのうじの先祖である。

あまのたねのみことが中臣。種子島やんw。ま、それはおいといて、のこり重鎮2名とあうかどうか:

ウィキよりそのまんま
③弥馬獲支(みま”かくき")
④奴佳鞮(なかてい)  日本書紀 あまのたねのみこと。→中臣氏
日本書紀:
天種子命アマノタネノミコトは中臣氏なかおみのうじの先祖である。

③はだれだろ。獲支は、”かくき”ではなくてワケかニギだとは思う。たぶんワケ。中国語発音では、獲=huoまたはwokで、支=chṳ̂, kîなので、ワケにしかなれない。うまわけ。あ、うましまわけだ。子供だ!!!うましまじの子供ってだれ?下記。でも日本書紀には出てきてないな。でもワケとついたら子供系ですよね。確認する。

彦湯支命ひこゆきのみこと、
味饒田命うましにぎ。あら。ニギだね。。。

日本書紀のワケの扱い

★”そこで吉備津彦キビツヒコと武淳河タケヌナカワワケとを遣わして、出雲振根イズモノフルネを殺させた。”
武淳河別=大彦命の子。うわ、でた大彦。パパ大彦は4道将軍北陸担当の皇族将軍。武淳川別は東海道担当。

★”王子である誉津命ホムツワケノミコト”。これは皇子でママの不祥事により一緒に自害、というかママに殺された(たぶん。忘れてる。。)。

★濘葉田瓊入媛ヌバタニイリビメは、鐸石命ヌテシワケノミコトと、胆香足姫命イカタラシヒメノミコトとを生んだ。

★薊瓊入媛アザミニイリビメは、池速命イケハヤワケノミコトと稚麻津媛命ワカアサツヒメノミコトを生んだ。

ワケってついてんのはやっぱ、子供扱いよな。子孫というか息子というか。※所感:ワケってのはオコになるのかもね。そののちにミコ(ご子息)になったと。御子ってだって、御=みってよまないでしょ。おとが先にあって、それに漢字をくっつけて、そのあと漢字にひっぱられた発音になったのでは。しらんがw。

で、話を戻して、ということは、

③弥馬獲支(みまかくき) 
は、②の息子。
②弥馬升(みましょう) 可美眞手命@日本書紀?うましまじ=物部氏

でけた。すべてまとめると、
魏志倭人伝にある邪馬台国の重鎮は、
日本書紀でいうところの、

①伊支馬 大来目ーー>大伴連配下
②弥馬升 可美眞手命うましまじーー>物部氏
弥馬獲支 ②の息子(わけorにぎ)。
④奴佳鞮 中臣※これだけ天種じゃないのは変だが

物部・大伴・中臣。出そろいました。もれてるのないよね??
しかしこれは、日本書紀都合で強引に、先祖の名前を魏志倭人伝に寄せていった可能性があるので、本当に代々これなのかは一切不明。
これが当たってるとしたらどうなるか、それはまた今度。。

今日はここまで。。銅鏡のこと、できなかった。。




以下捨て。



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