タケルとワカの妄想

やほー連日の投稿すみません。
今日は趣向を変えて猛について思いをはせてみる。
ただの、思い付きです。
でも私不思議だったんです。
ヤマトタケルって名前もらうでしょ。
もともとオウスだったのに、熊襲を退治して、熊襲タケルのタケルの名前をもらってヤマトタケルになったのです。
そのあと出雲タケルも攻略します。刀を交換します。

あと、ワカタケル(雄略天皇・サンチンセイコウブの武といわれてる人)も猛ですね。
で、思ったんです。これだったとしたら辻褄があうのでは。

綰る

たがねる。 わがねる。 曲げて輪にする
②たくる。

でね、タガネるとワガネるは微妙に違っていて
★タガネル 束にする
★ワガネる 輪にする
でどっちも綰と書きます。
こっから妄想:
たがねる=たける・高・
わがねる=ワケ(別)→若?(若は違う気もする)
だとしたらどうなります?

まず、熊襲タケルのくだりをみてもらえますか。現代語訳そのままコピペ:


★襲国に厚鹿文アツカヤ、迮鹿文サカヤという者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲八十梟帥ヤソタケルと言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか

★冒頭原文:襲國有厚鹿文、迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。
是謂熊襲八十梟帥
、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。
何不假鋒刃之威、坐平其國。」

★読み:襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)、迮鹿文(せかや)有る者(は)、
是の両人(ふたり)熊襲(くまそ)之(の)渠帥(たける)なれ者(ば)[也]、衆類(ともがら)甚(いと)多(おほ)しとききたまふ。
是(ここに)謂(おもへらく)、熊襲(くまそ)の八十梟帥(やそたける)、其の鋒(ほこ)不可当(あつべからず)[焉]、
少(すくなく)師(いくさ)を興すは、則(すなはち)賊(あた)を滅ぼすこと不堪(たへず)、多(さはに)兵(いくさ)を動すは、是(これ)百姓(あをひとくさ)之(の)害(そこなふること)なりとおもふ。
上代語で読む日本書紀《2》 (himiko-y.com)

ここ見てくださいな。
是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。
→この二人は熊襲のタケルの者なれば、衆類がはなはだ多い。
是謂熊襲八十梟帥

→これいわく熊襲やそたける、という。

つまり、たくさんの従者を率いる二人が、熊襲の”タケル者”で、それをもって「熊襲やそたける」というわけでしょ。

で、漢字が違いますでしょ。渠帥たける・いさお/梟帥たける
きょ‐すい【×渠帥/巨帥】=悪人のかしら。 頭目。
でしょ。つまりスベルものというか民を束ねる悪党をタケルというわけでしょ。さすれば、たくる・わがねる・たがねる、などの束にするという意味が全然あるはず。

であれば、わがねるとたがねる、どうして2つの言葉があるのでしょう。もともとの起源が知りたい。

(中国語発音はワン) わがねる・たがねる・たくる

わがねる:細いものを曲げて輪っかにする。
たがねる:集めてひとまとめにくくる。つかねる。束にするってことね。

二つの違う意味があるんです日本語では。
[文]たが・ぬ[ナ下二]《「たかねる」とも》集めて一つにまとめる。 たばねる。
輪っか。わん。倭。倭。倭。和
つまり、タケルっていうのは輪(倭)になってるわけじゃない毛を束ねてるタイプの人。

なので、妄想しますと、束のように束ねてる部族があり、その主張をタケルという、それを、略奪するのが天孫系。ヤマトタケル(熊襲タケルから襲名)に、ワカタケル。
ワカタケルは雄略天皇なのですが、この人は生まれながらにワカタケルだったっぽいんだよね。

ワカタケル大王は国際的には高句麗との関係が緊張する中,宋皇帝に朝貢し冊封を受けることで朝鮮半島における影響力を強化させようとしつつ,国内では有力豪族を武力で制圧し関東から九州までの豪族を支配に置き,百済からの渡来も技術者として用いた。

なので猛々しいというタケルの意味に加え、”統治する侵略成敗してたばねる、輪に組み込む”そういった意味があるはずなんだよね。

なので、ヤマトタケル、ワカタケルの場合
①ヤマトに組み込んだ人
②輪に組み込んだ人

となるとワカって何。
★ヤマトタケルの名前:
『日本書紀』・『先代旧事本紀』
本の名:小碓尊(おうすのみこと)
    小碓王(おうすのみこ)
亦の名:日本童男(やまとおぐな)
のちの名:日本武尊(やまとたけるのみこと)
     日本武皇子(やまとたけるのみこ)
『古事記』
本の名:小碓命(おうすのみこと)
亦の名:倭男具那命(やまとおぐなのみこと)
    倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
のちの名:建命(やまとたけるのみこと)
     倭建御子(やまとたけるのみこ)

★ワカタケル(雄略天皇)の名前:
『日本書紀』
大泊瀬 幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)
『古事記』
大長谷 若建命(おおはつせわかたけのみこと)
 『稲荷山古墳』
獲加多支鹵大王
『中国の書物』
倭王武


やまと+たける。邪馬台国をたがねる
わか+たける。 倭国をたがねる。
えーと。。。筋が悪いのかしら。
ワカタケルってさ、幼名ならわかるけど年とってもワカってへんでしょ。

大和王権っていうのがワケとか使ってたのです。
ちなみに雄略天皇のところから、日本書紀は別人(しかも日本の習俗をあまりわかっていない別人)によって記載されてるでそうです。
雄略からと、それ以前の書き手は違う。

なんかおかしいでしょー。
何がおかしいんだろう、整理したい。

これは稲荷山古墳の剣

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣 上祖名意富比垝 其児多加利足尼
其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
※辛亥の年七月中記す。ヲワケ。上祖名はオホヒコ。其の児(名は)タカリのスクネ。其の児名はテヨカリワケ。其の児名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児名はタサキケ。其の児、名はハテヒ。

(裏)其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀記吾奉事根原也
※其の児名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺がシキの宮に在る時、吾天下を補佐
し、此の百練の利刀を作らしめ吾が奉事の根原を記す也。

途中までワケ(別)で、途中からワケが消えてる。

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ


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