試行錯誤編【俺の邪馬台国】 まだ途中。

本日連投すみません。ちょっとすべきことがたまっていてバタバタ用事を済ませつつ逃避行していたw。煮えたぎった頭もリフレッシュできたはずなのでもう一回考えます。本日までの整理を踏まえて、辻褄を合わせないといけない項目を列記します。

大前提で証明の必要がない日本書紀の設定として:
 日本書紀の高天原は九州北部という”天”。
 天孫1代目ニニギは九州南部着地。
   スサノオ・大国主は出雲という”根”

今タカミ言い出しっぺのサンドイッチ仮説を取ろうとすると辻褄を合わせないといけないこととしては、

①魏志倭人伝の狗奴国=日本書紀的に出雲で置き換えてることの証明 これはハードル高いので一回仮設定のままにしておく。

②遺跡情報で奈良に鉄器が存在少ないと言われてるのはなぜ?

③出雲と九州の和平が乱れてきた理由が朝鮮資源獲得競争だったことの証明。238年頃。倭国大乱において狗奴国は戦乱にそもそも入ってた?というところの解釈。

④日本書紀で類似エピソードを九州と近畿でリピートしてる理由(アマテル期と崇神期※前回投稿より)。

⑤新羅と出雲一派はつながっていたかいなかったか調査。

取り急ぎ②の鉄器について調べてみます。画像はこちらのブログより拝借いたしました。https://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.htm

画像1

あ、ちょっとまって、3C頭~半ばまでで奈良の鉄器数が急激に伸びている。ということは、対朝鮮資源ライバルとしての部族は3Cまで全く奈良に存在していなかったことがわかる。これは朗報。崇神期から北陸・丹波・西海道・東海道に崇神の子供を将軍として派遣していることから、崇神を3C半ば以降の人とすれば鉄器発掘状況と辻褄があう。

九州北部の鉄器出土ピークは2C。3Cになるとなぜか少し減っている。その分、崇神に記載のある4道および奈良で突如増えている。とすると、九州分の鉄器を何等かの形で分配するのと同期して、奈良および4道が制覇されていったことが考えられる。

一方で、出雲・吉備の鉄器ピークは、2C。九州と違って、1C半ばまでほとんどなかった鉄器が、2Cになって急激に突然増えている。とすると、この鉄という資源を求めて出雲と九州北部は争った可能性がある。そしてそれが2C。そしてそれが4隅方墳出土時期。これをサポートする出土情報として下記も見つけた↓プサン大学の教授による調査結果。

勒島半島で出土する土器の出身地は、郡・中国・そして九州南部で90%w占めているのですが、あるときから出雲出身の土器が混じり始めてるのです。それが、弥生中期の後半から弥生後期の前半。つまり上の鉄マップとぴったり連動している。出雲で鉄が突然増えてきた時期に、朝鮮半島の南部と東南部で出雲式土器が少数発見されている。この方が言うには、フルセットで発見された場合は移住と解釈し、少数の場合は交流・貿易ということで、出雲の場合は移住ではなくあくまで交流だったのかな。(勒島は半島の最南端。半島南部には鉄の生産地がある)。したがって、これらの事実を総合すると、出雲は九州経由で鉄を獲得していたのではなく、ダイレクトに朝鮮半島から鉄を獲得していたことがほぼ確定できる。

そして、ごく一般的な道理に当てはめれば、同じ場所の資源を2つの違う勢力が獲得しに行った場合、当然、資源をめぐって争い、不和が起きる。そのため3C前半から半ばに、出雲と九州北部は争っていた、不和だったこと考えることは割と自然のことわり。あかん。休憩します。。。




つまり、朝鮮半島をめぐって、出雲と九州北部は争ってた。

そしてそのタイミングは3C度頭から半ばにかけて。

それで、238年九州北部はその旨を魏に報告した。報告した内容の中には、出雲と鉄資源をめぐって争っている旨の記載があったはず。238年に



また補足ファクト情報として、九州の吉野ケ里遺跡から見つかった絹の成分と同じ蚕を探して朝鮮中国あたってもどこにもなかったのが、宮内庁に問い合わせたら、宮内庁が同じものを持ってたというのはフェイクか。どっかで見たけどどこで見たか忘れた。


一方で、

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