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没になりました→狗奴国は句国なんだと思う。阿蘇とかいてくまそと読むんだと思う。であれば弥生時代後期の九州人は漢字使えたと思う。そして広島の墳丘墓に見る呉の土墩墓方式

今日何しよう。。。意外とみなさん出てるのかしらね。テレビによると関東方面はその模様だけど。。。病院入れないけどだいじょぶなんだろか。入れなくてもぜひともいまさら”なんではいれねーんだー!!ぎゃー!”と騒がないでいただきたいw。GW明け、また案の定ぎゃーなりそうで怖いんですがw。そんなことはすでに我々知ってるじゃんね。承知の上ということで、お願いだからGW明けにギャーなりませんようにwおなか一杯w。五輪って、やっぱりやるのかな~。五輪のあとは絶対不景気らしいし、お金かけといて、直前にキャンセルになって、しかも五輪やってないのに不景気到来とか一番最悪のパターンだよねw。しかしインド発の型がやや怖い。というかインドかわいそうで仕方ない。。一日40万って、すごくないですか。。

ちょっと気になることがあるので書いておきます。狗奴国ってイヌと関係ないと思う説。そして熊襲の熊は🐻とは関係ない説。曲がりくねったの”阿(読み:くま)”からの隈で転じて熊になっただけで、どちらも獣とは関係ないと思う。下記象形文字から見る漢字自体の意味です↓

①狗奴国の位置 魏略・魏志倭人伝は女王国の南で、後漢書が東の件:

なぜか。理由候補①どっちかが間違ってた ②実際に位置が変わってた。③誤記

②魏略いわく、女王のエリアは”太伯”の末裔自称してた件からみる狗奴国:

太伯とは、いろいろ中国であって、結果周の長男太伯が分裂して南部に移動して建国した呉越の呉の初代王のことでして、もともとの名前が句呉(こうご)なんです!後におまえ帰ってこいーとなったんだけど、彼は入れ墨をすることで”もう俺は戻るつもりありませんので”と主張して帰らなかった人らしく。海人になったのかね。それで、句呉ってさ、、、なんでこの漢字なんだろね。あやしすぎるのよ、なぜならば、



句 =曲がったカギの引っかかった」象形(「まがる・区切る」の意味)から、言葉を「区切る」


呉 =祭器をもって踊り狂う人の

でですね、狗奴国の犬ってのはおそらく犬とは全く関係ないかと思うのです。むしろ呉とかそっちの方に近いのかと思ってきました。なぜならば

狗 = 犬は部首の方で刺しておりまして、右側は小さくかがむの意です。
そしてそこの王がヒミココで、官は狗古智卑狗なのですが、魏略では、狗智卑狗です。でもって王に関して、

女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

→”女男をもって王となす”。これ、誤記だと思います??

で話がさらに飛びますが、魏志倭人伝に、傍の国々の記載がありますが、

対蘇、蘇奴、華奴蘇奴国というのがあります。蘇がめっちゃ出てきます。なそ”そ馬”といのもありますが、漢字が蘇ではありません。

でな、蘇っていうのは、呉の後ろの方に昔あったのですが、蘇の語源を見ますと、

 =と穂先が茎の先端に垂(た)れかかる象形」(「木や魚を捕る」の意味)から「草を刈り取る」、「しそ」を意味する「蘇」という漢字が成り立ちました。また、「遡(そ)」に通じ(同じ読みを持つ「遡」と同じ意味を持つようになって)、「よみがえる」、「向かう」、「逆らう」の意味も表すようになりました。

引用元→https://okjiten.jp/kanji2718.html

阿 =くま!!!!
丘の曲がった所「くま(湾曲して入りくんだ所)」を意味する


 ア:「山や川の曲がって入りくんだ所」
 イ:「奥まって隠れた所」、「陰になって暗くなっている所」

阿蘇とかいて、くまそなのよ。!!!!!!

つまり球磨 隈 熊 で隈とか関係なくて、熊本ってのは、阿の裾野ってことよね。そして曲がって入り組んでるといえば句になるわけで、それを侮蔑すると狗になるので、やっぱり実際の犬とは関係ないと思うのね。

もしそうならば、当時の人たち、ある程度漢字使えてたわけで、ほんとに中国出身だったのよ!!そして、実際弥生時代の遺跡から硯や、文机が出土してるのよ!!それはDNAの具合からも辻褄が合うのです!!(③へ)。つまり阿蘇の蘇っていうのは、例の山幸彦海幸彦の語源になっておるのです。「山や川の曲がって入りくんだ所」(阿)にて”魚や気を取ってる人たちがいるところ”ってのが阿蘇であり、蘇の国かと思います。

③DNA解析に見る狗奴国:

DNA解析で判明した弥生(中期後期あたりか)人のDNA.これを基に計算すると、減退人は大陸血統とブレンドし続けることで、縄文の方にジョジョに寄っていくべきなのに、実際はもっと下の方に位置していて、大陸の方に寄っていってるそうです。説明しようとすると長くなるんだけど。。。それはまた今度。。。

福岡の弥生人(中期)と、長崎の弥生人(明言なし)、は長崎の方がやや縄文の血が濃いものの、ブレンドしているのは間違いがない。どことブレンドしたかが非常に、難しいよね。。。中国ダイレクト流入だった可能性があり、故に、魏略の”太伯末裔自称”が生まれたのかもしれぬ。だとすれば漢字のこと知っていて当然なわけで、すくなくとも象形文字的なものは出てきてもいいはずであって、では卜の出土状況を見てみればいいのか。つまり九州の北部も南部も中期以前は、縄文と朝鮮半島がブレンドして出来上がった社会・血統で、それにある時期、大陸がダイレクトに入ってくることで、戦乱が起きたのかもしれぬ。

太占の見方

やり方
1,奉納された鹿の肩甲骨を用意し、呪文を唱えながら火で骨を焼きます。
2,焼かれた鹿の肩甲骨に、ひび割れが発生します。
3,ひび割れの数や様相から、結果を占います。https://rogaly.jp/

弥生時代のふとまに分布 引用元:https://kamakura8.blogspot.com/2020/07/blog-post_84.html

広島と熊本からは出てないっぽいな。。。

古墳以降
https://core.ac.uk/download/pdf/97063453.pdf
卜骨出土分布。

なんとなくですが、装飾古墳の壁画の丸にも見えますな。。

漢字の形跡は、ないな。。一回断念。


④九州北部からの硯と文机の出土状況:

博多 弥生後期https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/preservation/19.html

★福岡県朝倉市一木の下原遺跡で弥生時代中期中頃の最古級のすずりが出土。これまで大分県日田市や熊本県阿蘇市などでも見つかっているが、時期が分からなかったり、弥生時代終末期だったりしていた。

★松江市では文字入り硯が出土 @弥生中期・後期
https://mainichi.jp/articles/20200201/k00/00m/040/113000c

やはり、少なくともクマソエリアまでは漢字そこそこ使えてたんじゃなかろうか。

さらに、なんとも驚きの情報なのですが、4隅突出型墳丘墓ありますでしょ。あれの原型は広島発だったのだって!!!これ真実だとすれば結構すごいことだと思いまして、その原始型としては、下記のとおり:

山陰地方から中国山地では、弥生時代中期段階には墓穴を掘り、1度埋葬を行った後に盛土を行う「墳丘後行型」か、「同時進行型」が盛んに行われることがわかってきました。また、後期には、「墳丘後行型」・「同時進行型」から「墳丘先行型」に変化していきました。さらに、埋葬施設や墓前祭祀の変化も同時に現れました。墳丘墓の構築方法の変化が、首長埋葬の際の、葬送儀礼の変化(拡大化・荘厳化)の契機となっていたことを実証的に理解することができたのです


引用元は下記↓


これに連動できるのが、呉の埋葬方法。それは下記↓。あちらは土壌が固いので、盛土をしてから穴を掘って埋めてた。その思想が、入ってきたのかもしれない。そもそも広島って呉あるし!!w

中国呉エリアの土墩墓方式


もともと土壌に穴掘ってから盛り土してたのが、まず盛り土してから穴掘ることにしたのは中国の影響かもしれないね。とすれば、それはいつか→弥生後期。

中期から後期にかけて大陸系の流入が割と大量に九州・山陰方面にあったと推定できるかもしれない。

とすれば、狗奴国っていうのは句呉出身者な可能性が高く、船でダイレクトにやってきたのか朝鮮経由できたのかはもはやわからないけど、一回朝鮮混血をかませないで直接やってきたのかもしれない。

とすると、九州南部と北部いずれも呉出身のドウゾクと考えることができるとすれば、仮定として、機織りが得意だったあまてるちゃんなどにも説得力も出てくるわけで、とすると、魏略にいう女王の南はこの時までは少なくとも九州南部を指しており、それは句呉の句だったとおもわれるのだけど、なんで呉は改名して呉だけになったのだろう。しらべちゅう。

仮説:

中期をはじまりとして、九州全域に句呉出身の人々が入ってきた。のち一部秦の人も入ってきた。一部が広島に流れた。一部が吉備に流れた。九州北部エリアは朝鮮半島との交流をベースの経済基盤とした。一方で、九州南部は別の文化圏を持つようになり、次第に北部と対立するようになった。北部の人はそれ以降も朝鮮半島人とミックスすることで、典型弥生人となっていった。南部は朝鮮とその後あまり交わらなかったので、縄文の血が北部より濃いけれど、完全に縄文人ではない、縄文系弥生人となった。出雲は考え中。だとすれば、血からみると、近畿の勢力は典型弥生人であるため、九州北部出身者と考えるのが妥当。

魏志倭人伝に、女王が”呉の太伯の末裔”自称したくだりが抹消されているのは、当時の勢力図からすると、倭が呉の末裔であることは結構都合が悪かったんだと思う。西晋の前身って魏でしょ?中国史が複雑すぎてわけわからぬが。呉はまあ、ライバルですわな。そのライバル出身者が倭だなんて、抹殺するしか道はないわけです。

今一度阿蘇

阿 くま

蘇 そ

狗奴国=句(句呉)の国 とすれば、

ここつひこ=句(呉)を知る男=句呉出身男性

魏略:拘右智卑狗      

魏志倭人伝:狗古智卑狗

そして狗奴国の王は

魏略:名称記載なし

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀。

魏志倭人伝にて女王が紛争を訴えた狗奴国と、魏略から引用しているパートの狗奴国は、別かもしれぬ。可能性、めっちゃある。つまり238年だっけ、そのあたりで闘争していたのは、むしろ出雲方面。そしてそれ以前にあった不仲の狗奴国というのは九州南部のこと。そこらへんが陳寿さんいいかげんだからぐっちゃぐっちゃにかき回してくれちゃったのかもしれぬ。いや、かき回してくれちゃったに違いない。陳寿さん余計なことしてくれたものですw。

だとすれば、阿蘇が熊襲ならば、蘇奴から始まる傍らの国もやっぱり阿蘇のきんぺんなわけで、とすれば、狗奴国っていうのは熊襲とは別なわけです。ですよね?わけわからなくなってきたw。魏志倭人伝時点では、阿蘇周辺=熊襲は、このときすでに手中に入ってたわけで、30か国の1か国だったわけ。とするとあの阿蘇のあたりはすでに魏志倭人伝時点では狗奴国とはいえないわけで、もっと南にいけばほぼ利害関係差しさわりないうえに、制覇しても特にメリットはない隼人。むしろそこまで南に行っちゃうと種子島(じゅしゅ国)で超遠方の異国情緒な認識であることは魏志倭人伝からもわかる。魏志倭人伝時点の狗奴国の所在地が極めて怪しくなってくる。後漢書(445年)では東になってる。むむむ。この南の記載を魏略からそのままひっぱってきちゃったのだけど、200年前後の南にある敵対国=狗奴国は間違いないのだけど、それが、ヤマトから送った使者の時点で南とは考えづらい。

ちんじゅめ~。

所感:

我々現代日本人が、中国人をかなり好戦的で恐ろしいと思うのって、もしかして縄文の血がそうさせてるのかなw。下記みてください。殺人事件の分布です。長野・出雲・鹿児島の少なさよ。これらって縄文の血が濃いのよね。関係ないのかしらねw。縄文人、争い好きじゃなかったらしいし、ふかーいDNAのところで好戦的かどうかって決まってるのかもしれないぞw。

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