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日本書紀では相撲の力士を牛(for水田農耕)オマージュとして書いてる?【俺の邪馬台国】※垂仁1

今日もオレヤマ。オレヤマの呪いにかかってしまったようですw。しばらくブームが続きそうでフォローくださってる方どうかお許しくださいそのうち休止期間になると思います。ずっと考えてます。寝る前もw。サンドイッチ仮説が揺らぎ始めてる本日ですが、めげずに日本書紀のほうは自力読解を進めていきます。亀速w。今やっとのことで垂仁天皇です。はやく神功皇后のところまで行きたいですw。

①印鑑とマガダマ

超アウトローなこと昨日思いついたので、我ながらあほっぽいのですが、一応書いときます。玉って日本書紀に頻繁に出てきますでしょ。勾玉も(曲)玉。三種の神器の1つも勾玉といわれてます。で、この垂仁の天皇でも朝鮮からの貢ぎ物として大量の玉がささげられるのですね。でもさ、○○の玉、って連発されてもなんのこっちゃわからないので検索してみたんです。古代中国には玉っていうのは宝石という意味もあるし、玉璽という意味もあり、その場合なんと皇帝の印鑑なのですって。皇帝を証明する印鑑。ググった画像が下記。立派だな~w。

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日本書紀原文だと、曲玉というのとただの玉というのがありますね。垂仁天皇のくだりですと貢ぎ物として玉ばっかりプレゼントされちゃってますw↓

羽太(はふとの)、
足高(あしたかの)、
鵜鹿鹿(うかかの)玉各1つずつ。

宝石なのかね。玉ばっかり持ってきても私が王だったらそんなにうれしくないw。話を戻して、印鑑がギョク(玉)と呼ばれてたこと知らなかったのだけど、三種の神器の玉っていうのは、確実に勾玉なんですかね???まさか印鑑、つまり魏志倭人伝のシンギワオウの印鑑を皇室持ってたりするというオチではないよね?w(@_@)。だとしたらいくら探してもないぞw。ウィキによると、”鏡と剣と玉(璽)”ってかいてあって、”マガ(曲)”とは書いてないような感じなんだけど。。。いつマガがついたんでしょう。そういうエピソードがあったようななかったような。。。明記してたっけ。玉璽とすれば、印鑑にも読めるんだけども。。。どうなんだろ。。日本書紀原文を読む必要があるかも。まだその三種の神器のエピソードまで到達してないので、とりあえず読みすすめるしかない。皇室行事なんかでたまにみかけるあの箱、透視したい。剣と鏡は弥生色ばりばりなのに、勾玉だけ縄文色が混じってるのがずっと気にはなってたんだよね。もしや印鑑だったりして!と思ったら面白かったので一応書いときますw。逆に印鑑じゃない証拠ってあるんだろうか。みんなが一生懸命探してる印鑑がなんとも灯台下暗しで東京にあったらギャグだよねw。そして、持ってても、全然不思議じゃないよねwwww.むしろ、持ってるべきだよねwww。どーなんだろー。


②相撲と牛@垂仁前半
★日本で今のところ出土してる最古の牛の骨は5世紀頃
の南郷遺跡(奈良県御所市)。 また、古墳時代には、ウシの埴輪も多く出土しています。

天・神の設定変更(あるいはパラダイムシフト)を欠史8代~崇神のあたりで書いてたのですが、いろいろおちついて大和での基本設定も完了して、さてさて、という状況になりました。そして次の代が垂仁天皇。

垂仁天皇は、生まれながらにガタイのよいお人だったそうでw、スポーツマンシップ的な描かれ方をしておりましてw、私的に学生時代元ラグビー選手でいまサラリーマンとかで、仕事終わったらなんでもいいからとにかくスポーツ中継見るのが日課、な男性とイメージしてるのですがw、この人の治世で相次いで朝鮮半島から使者が来ますので、それと相撲エピソードへの引っ張り方がなかなか巧妙でして、面白いので書いてみます。日本書紀ってずいぶん時間かけただけあって、伏線本線が交差しまくっていて、これがあれの伏線だったのね、というか伏線いくつあるのかしら、と読み解くのも大変w。全部私的解釈で適当ですのでご了承ください。この天皇の一連のあれやこれやは、どうやら、前半部は農耕技術の整備と関係してるっぽい。実際に朝鮮から使者があったといいたいのかどうかはちょっとわからぬ。それはあとで考える。

おかーちゃんはミマキヒメ御間城姫。なぜかこの母親の名前が王の名前になってる不思議(後述)

で、まず、任那の人”蘇那曷叱智ソナカシチ”が来てます。これは先代のときに来日してずっと滞在してたっぽい。で垂仁の時に「やっぱり国に帰りてーですー」と言い出しまして、垂仁は「へ、あんたまだいたの」と返すのですw。来賓に失礼だよねw。日本書紀ってしれっとこういうこと書いてることがあるのでびっくりして笑っちゃいますw。たぶんこれで優劣を表現してるんだろうけど、にしても、失礼w。で、赤絹を百匹(100枚)を持たせて任那の王に贈られた。ところが、新羅しらぎの人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。

別書では、額に角の生えた大加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト、またの名は于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキが来たのね。彼ははじめ長門に漂着したのだけど、そこにいた伊都都比古という王に対面して、その王は俺がこの国の唯一の王じゃ、というのだけど嘘だと思い、出雲周りで大和までやってきました。数年たって垂仁が帰りたいかときくと帰りたいというので帰した時に、お前の国の名前を変更しろということで、その名が御間城天皇の御名をとって、お前の国の名にせよ。とそれで任那になったとのこと。絹の件は同様で絹略奪事件で新羅と任那の争いが始まった。

これさ、牛だよねー。このころに農耕用の牛が輸入or導入されだしたのかなと。都怒我阿羅斯等ってツノガアルヒト(角が有る人)って読めない?w。”が”とかいう助詞があったのかはおいといて、とにかく角が有る人をそのまま名前にしちゃったっぽいw。角が生えてるって書いてるし。牛でしょ。と思ってたら次の別書で下記↓※係体言助詞として上代から助詞としてのガは存在してたみたい。

都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトは国にいたとき、黄牛に農具を負わせて田舍に行ったら牛逃亡。追いかけると老人がいて、”牛は村人が食べてしまったが代償の話が出たら牛を所望せずに石を所望しろ”と謎のご教示してきます。そのとおりにして獲得したのが白い石→変身して美女→美女逃亡して倭国に漂着。難波に至って比売語曽社神となり、豊国の国前郡に行って、比売語曽社神となりましたとさw。

まずここまでが任那の来日物語です。でな、話ころころ変えてすみませんが、この流れの延長で、垂仁パートでは後半で相撲の話もつづいてるんですが、これも角なんです。すもうというのは角力とかきますでしょ。この話の持っていき方ですと、牛、そしてガタイの良い垂仁→すもうですので、相撲取りは牛の化身としての相撲取りなんだとおもうのね。体格も牛に似せるためにガタイよくしてるというのが古代の価値観なのだと思うの。つまりすもうっていうのは、農耕技術の発展を表現してるんだと思うの。それが国技相撲(完全オリジナル解釈なので話半分で聴いていただきたいw)。

そういえば、土俵って、○なのに■だよね。そして南と北では絶対にない。東か西か。意味深~。。。ちなみに垂仁で日本初の相撲がとられてますが、そのときは出雲の力持ちと、大和の力持ちが戦っておりまして、そのときは出雲の力持ちが勝ちまして、出雲の力持ちに大和の田んぼを与えて褒美としており、この方は大和に定住しました。出雲といえば■ですよね。天孫といえば○ですからね。意味深すぎますよねこの土俵のデザイン。いつからこの土俵あるんだろう。※古代相撲にはないっぽい。

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あ、てことはさ、力士の恰好って、いかに牛に似せるか軸で装備されてるんじゃないのかしら。永遠のヒーロー、千代の富士↓すごい筋肉。

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牛↓オシリで顔か。牛の顔についてるT字の綱は何の役割なんだろね。

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じゃらじゃらは、なんだろうね。馬鍬かな?※じゃらじゃらは下がりという名称で化粧品回しが試合のとき邪魔だから簡略化したんだって。

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あ、となると、化粧回しが鍬なのかも。↓似てる!

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髷は、角かな?要するに闘牛を擬人化した感じがスモーってことか?

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牛さんは塩を舐めます。お相撲さんは塩を撒きます。たまになめます。ちなみに盛り塩の起源は牛の餌です。

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今一度千代の富士。千代の富士って、肩を脱臼する癖がついてしまっていたそうで、それをカバーするために後半からムキムキになったのだって。唯一無二の筋肉美ありのお相撲取ですよね。すごい。芸術を感じるw。

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あ、しまった。こういうことしてるから全然進まないんだよね~w。

疲れてきたので、以下は明日に続きます。


突っ込み① 牛で水田を耕すのは現実はいつから?
突っ込み② 朝鮮の本紀に書いてる、娘を倭王の王子と結婚させた話と絡みある?
突っ込み③ おかーちゃんの名前をなぜ天皇の名前にする?
突っ込み④ このあたりから出雲と親和が完了してるアピールがすごいのと、平行して九州が敵対的に描かれだすのが特徴ですね。出雲と契約完了したのは九州北部だったのですが、それを遂行した時点で、九州と敵対するという不思議。

御間城ってさ、間の城でしょ。つまり流れ的に、任那にも付けさせてるし、朝鮮・倭国の中間に位置するので”間”って意味が強いかと思うのですが。


かきかけ。




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