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高皇産霊神ってやっぱ中国じゃないでしょうか?コラム=玉と名月と糸【俺の邪馬台国】

さっきまで大雨だったのに、急に晴れてきてなんか暑いな。休みの日にも調べてしまう熱の入りっぷりw。先日の奈良訪問時の無人市で買った栗を食べておりますwはぴねす。秋だねー。オレヤマ案件はだいぶ調子が乗ってきましたw。

さて、これ、見ましたでしょうか?

 日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。研究チームは、約9千年前の縄文人や約1500年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読済みの弥生人2体のデータなどと比較した。親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。

これな、この流入集団のなかには、銅鏡作れる集団が入ってたはずなのね。昨今にわかに注目している三角縁神獣鏡。あれには舶載鏡とほう製鏡があるといわれていて、舶載鏡は輸入品ということになっているのですが、あれはきっと、中国鏡技術者集団が弥生末期から古墳初期に日本に派遣されてきてて、それで、”日本国内で中国風の鏡づくりをした”、これが上手にできてるので舶載品に見えてるということで、そのあと、その技術を教えてもらった倭の日本人がコピー品(ほう製品)をつくるのだけど、それは粗雑な作りなのでほう製品、と言われてるのかと思います。そういうひとたちはファミリー連れで移住してきてたので結構な数入ってきたのだと思う。結果、DNAレベルで変化が起こった。

マイ結論:この記事の古墳期DNAの変化は、中国さんの対朝鮮戦略の一環で倭地に大量に魏の技術者が送り込まれたことに起因する
~中国さんの思惑=倭をヤマト勢力に統一&集権させる~
ゆえに、この流入は自然流入ではなく、国家指令の中国国策的な流入になる。

ただ、それが証明できない。という大問題があります。泣けるw。どうやったら証明できるのかしらねー。

参考情報で、今中国から見つかっている同三角~銅鏡は、1枚。最近見つかったみたいです:

抜粋:今回の報告のきっかけは、2014年12月に中国河南省の研究者兼コレクターが研究誌に発見を掲載したことだ。大阪府教委文化財保護課の研究者、西川寿勝副主査が昨年11月、現物を調べた後、広く日本に紹介した。09年以前に同省の洛陽(らくよう)(魏の首都)近郊で農民が見つけ、骨董(こっとう)市に出されたのを研究者が入手したという。不明瞭な経緯だ。

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洛陽ねー。ありうるけどねー。このあたりにいた鏡制作技術者が派遣されてきたわけで。しかし同時に帰国したり使者のやりとりにて、1枚くらいサンプルが渡った可能性もある。しかしながら設計として、渡日前にあらかじめデザインを発明して上に許可とってた可能性もある。だって、銅鏡バラマキ集権システムは中国パイセンが発明して、倭に実行させたと思うから。

で、

もし上記が正しければ、やっぱり私のサンドイッチ仮説につながってくるのです。倭の中央集権システム(大和体制)を構築するために、銅鏡配布手法が使われたわけですが、これには中国パイセンの思惑が大変入ってたことになるわけです。じゃないとわざわざ貴重な技術者や体力の中国国民を遠国に派遣したり(あげたり)しない。

とすると、私のサンドイッチセオリーの概要を今一度列記すると

2Cー3Cの中国の気持ちまとめ
★中国は朝鮮半島北西部あたりをじわじわ管轄下に納めていた。楽浪郡~帯方郡(およそ204年から313年の109年間)。高句麗・百済は属国方面の手中。

★新羅については未着手。新羅と百済は敵対関係(三国史記より)。

★倭地をみると、2つ3つの勢力が争っている(メイン勢力は九州北部VS出雲王朝)。そのうちの1つ九州北部倭は百済と交易関係。一方で敵対する出雲は新羅の隣国。

★中国さんの懸念 新羅と出雲倭が連携して、朝鮮半島を制圧してしまう可能性があり、そのリスクは回避すべし。

★上記状況をすべてかんがみると、九州北部勢力に倭地を統一させて、集権的に管理してもらうのが中国的にはベストアンサー。可能であれば、倭地を統一したあと、新羅も制圧していただければなおよし。

からの、

★倭地は、189年頃まで多数小集団の勢力争い続く。いま協定を結んで2つの勢力にまとまり、統治分割している状態。九州北部倭と出雲倭が2大勢力。小さいところで九州南部も別勢力。

九州北部倭の気持ち

1Cまでのお話:
もともと九州北部倭は百済(馬韓?)と交流がながいことあった。百済はこのときすでに中国傘下(さくふう)、あ、ちがう。さくふうとかではないっぽい。いずれにせよ百済と九州北部はながらく仲よしだった。しかし!↓下記のとおり後期(1Cごろ)になってくると、出雲が進出して横取りしようとしてくる(狗邪韓国あたりの交流拠点のことね)

①円形粘土帯土器
韓半島青銅器時代後期にあたり、中国からはいってきた製作手法。この土器は青銅器とともに副葬されていることが多い。
主に円形粘土帯土器段階には青銅器がともに副葬されている。青銅器の生産と深くかかわっている。
★日本での出土時期:弥生時代前期末~中期に集中
★日本での出土場所:九州北部がほとんど。移住・長期逗留を伴っているケースが考えられる。
②三角形粘土帯土器
三角形粘土帯土器段階には鉄器がともに副葬さ.れている
★日本での出土時期:弥生時代中期後半~後期初頭
★日本での出土場所:70点出土。。西日本各地で散発出土。舶来品ばかりで模倣品はない(現地から持ってきたものであり、移住などを伴わない)。粘土帯土器出土分布図↓。山陰からは円形・三角・模倣品円型が出ているが、②の三角土器は、九州より山陰地方にむしろ多く出土

狗邪韓国(のちのかや・みまな)は、文字通り、狗奴国・邪馬(台)国・韓国が入り乱れてる土地。この1Cにおいては、まだくやかんこく、ではなく、とういつした王朝もないゆえ、各倭地の国々が、それぞれ交流を行ってた。

そこで、山陰地方がこの地で優勢になってきて、57年ごろ奴国王は劣性になってきて困って、朝鮮半島との交易権争いに対して後ろ盾がほしく、奴国王が代表して初回使者を中国に送った@1C。107年の倭王スイショウの使者も以下同文。

で、時代は流れて238年、この時点までに何が起こってたかというと、これら、朝鮮と交流してた@狗邪韓国、あまたの国々が相コウバツした。干ばつから食糧難で飢饉なども起こっていたのも背景にある。

それで、ちょとかんがえちゅう。

景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[14]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。

しらべちゅう。ちょっとここからは慎重にいきたいので一回ストップします。

で、日本書紀を見てください。日本書紀は、中国様のお気に召すように書く傾向がありますので、その点にポイントを置いて読む必要があると思うのですが、そうすると、通常の正史ですとあるべきではない、高皇産霊神が、設定されているのです。

高皇産霊神のしたこと要点:

①出雲倭と九州倭で和平条約協定済み(領地決定)にもかかわらず、突然それを無視して、倭地を統一しろ!と命令した。そしてその横暴な命令に逆らえなかった。
日本書紀該当箇所:天照大神の子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊との娘の栲幡千千姫を娶とられて、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだ。皇祖である高皇産霊尊は、特に可愛がり大事に育てられた。そして、孫である瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の君主としたいと思われた。

おいおいおいw。倭地内ではすでに出雲と九州北部の2大勢力が和平協定してるのに、それを勝手に覆しちゃってます。そして天照も誰も、それに有無いえぬ状況が描かれているんですよね。最高神である天照が抵抗できない存在が、正史に書かれてるわけです。

おかしいよね。別に、アマテルが自分で主体的に”やっぱり倭地はわしのもんじゃー”と言っても別に良かったのに、さらに上の存在を作ってそれに指令させてる。それの意味するところって、なによ?

となると、日本書紀制作の状況から鑑みるに、やはり中国さんに、良い気分になってもらうことだったことが想定できます。他にも重要ポイントで出てきて司令塔として描かれているのです:

@出雲 国譲りのセリフ:
「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」

先生がそーいってるんだぞー!って言ってるでしょw。そしてこのセリフが出雲陣にちゃんと効いててちゃんと戦乱回避しているのです。不思議でしょう。

なにかがおかしい。別にいらない。いらないのにある。なぜか=中国さんが気分良くなるように描いてる。って考えるのって、非国民?www。しかし私のサンドイッチ説とも結構マッチするわけで。。引き続き考えていく。ただ、私がいいたいのは、天孫は中国人といいたいわけではないです。司令塔として中国に入れ知恵はいただいていた、ということです。ですので、ヤマト(奈良)に拠点を置いたのも中国パイセンの入れ知恵でそういう戦略をとったのですねきっと。はあ、証明したすぎる。

コラム 玉って何?問題について

日本書紀を読んでいると、あちこちに玉の記載が出てきます。人物名にも入ってます。三種の神器でもあります。それで、玉とは関係ない別件で知恵袋でいろいろ質問したり、マイセオリーについて意見もらったりしていて一つ質問されたのです。

  「じゃ、ツキヨミ(月読尊)って誰よ?」

・・・む。放置してた。

放置してたので自分でも気になってたので、いろいろ漁ってたら、下記の件が出てきました。月のウサギの話。

月に兎がいるという伝承に見られる想像上のウサギ。中国や日本では玉兔(ぎょくと、Yùtù、イートゥー)、月兔(げつと、Yuètù、ユェトゥー)などと呼ばれる。対となる存在(日にいるとされる)には金烏(きんう)がある。

”玉”兔

なぬ。なぬなぬなぬ。月が玉扱いではないですか。

月が玉。。。。玉が、月!!

びびびびび。といつものように来まして、玉っていうのはたとえば魏志倭人伝だと下記の記述がありますね:

①”貢白珠五千孔 青大句珠二枚”
壱与は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白五千孔、青大勾二枚、異文雑錦二十匹を貢した。
※青玉はヒスイのマガダマのことですねたぶん。しらたまはしらん。たぶん真珠。下記にも書いてるし。

②”出真珠・青玉”
や青が産出される。

で、それが月と。あと、隋書倭国伝にもたしか謎の玉の記載があった:

さがしちゅう。



アマテル・スサノオ・ツキヨミは3兄弟なのですが、これはやや、中国神話から持ってきているところはあるのです。全部じゃないよ。エッセンスが。

それで、翡翠の玉といえば、もちろん三種の神器です。かつなぜかこれだけ、弥生起源ではなく、縄文から引き継いだ物品。

翡翠の産地。すみません下記は広告画像お借りしてるんですが、産地は下記のとおりなのですw。http://www.ichiburi-seki.com/hisui.html

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長崎のヒスイって知らなかった。長崎翡翠っていうらしい: 長崎翡翠。今はもう取れなくなってるみたいね。https://www.mercari.com/jp/items/m13984822678/
”透明度は半透明で、深い緑とブルーの混ざった色をしています。”

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長崎翡翠の勾玉発見↓

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で、だんだん話がそれてきましたが、要するに、玉が月だとすると、勾玉ってわし、もともと釣り針とか起源で大漁を祈ってた(→子持ちマガダマへ)のだと思ってたのだけど、もしかして月起源なのかも。

で、タマっていう役職名が倭人伝に出てきます。

不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。

なんか関係あるのかな。たま。ふみこく。ふみこくはわたしのなかで海に面していたという決着がついてるので(過去記事ご参照のこと)w、ナ国のすぐそばにありまして、しかしイザナギの伊邪那岐の4勢力(伊都国・邪馬(台)国・奴国、一岐国)には入ってないんだよね。入ってないのがおかしいのだよね。おそらく奴国はスサノオ系として邪馬台国はあまてる系とすると、あとは糸国か、壱岐国。

長崎では翡翠は出てた。伊都国ってさ、イトじゃん。糸魚川ってあっちのほうにあるじゃん。イトという言葉が翡翠とつながってたりってする?

いと、いと、イトという言葉にどういう意味があるのか、しらべる。

。。あかん今日はここまで。引き続きしらべてわかったらまた書きます。


以下捨て


景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[14]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。


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