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文化の人。

平素よりお世話になっております。高島です。

L.Aのバンド「BAD OMENS」が今年に入って新譜を出していたのに気付き、聴いてみました。
メタルコアを根差したバンドがクリーンボーカルに移行するのはよくある話ですが、このボーカルコントロールがとても素晴らしい。
ライブでもファルセットもシャウトも、まったく同じように抜けて聴こえてくるのは力技で歌っていないからでしょう。ドラムにも転用できる考え方で、とても勉強になります。

バンドサウンドも練度が高い。クラッシュシンバルで刻みたいところをハイハット・クローズで落としている辺りはインダストリアルミュージックに聴こえます。
歪んだディストーションギターにエレクトロサウンドが混ざっているのは昨今のメインストリームのアプローチですが、ソングライティング的にBreaking Benjaminに代表されるような、00年代オルタナの匂いも感じます。いやぁ、音楽っていいですね。

音楽において、この「匂い」に重点を置いています。
匂いを感じる音楽、掘っていくと「ルーツ」に辿り着く訳ですが、例えば「四つ打ち」と呼ばれるビートもテクノ源流のビートなのか、ラテンベースなのかでまったく違うわけです。

具体的に言えば前者、テクノ的アプローチだと元来コンピューターで作られたビートですから、ある意味で「抑揚のつかない」演奏になります。
後者、ラテン的アプローチだとドラムセットはラテン・パーカッションの集合体と解釈し、バスドラムはスルドの置き換え、ライドのカップはカウベル、ハイハットはシェイカーの役割などの前提条件を理解しておく必要があります。

四つ打ち、と一口に言ってもこういった文化的背景を知ってるのと知らないのではかなり違って聴こえてきます。
「ダンス」という言葉は同じですが、ここは「踊りにいく」のか「踊らせる」のか、スタートから違っているので当然解釈は違うし、これがルーツ、「文化」の違いと言えるでしょう。

もちろん音楽に限った話でもなく。
先日観たホラー映画『CURE(1997年)/監督: 黒沢清』と『ヘレディタリー/継承(2018年)監督:アリ・アスター』の絵がとても似ているように思えました。
本来そこには無いはずのモチーフだったり、人間に備わっているはずの善意がすっかり抜けていたり。

「あるはずのものが無い」、「無いはずのものがある」。そう考えるとのっぺらぼうなんか超ミニマリスト。
文化として人間が恐怖を感じる対象は、実は昔からそんなに変わっていないのかもしれません。
ゾンビ物や『13日の~』シリーズはより近代化された、もっと装飾的なアプローチで。食べられないんだったら多分ゾンビって怖くないもん。

「文化」とは人の営み、先述の匂いとは「生活の匂い」なのでしょうか。「匂いのある音楽」とはそこに人が居る・見えるリアルさ。
それが苦悩なのか、幸福なのか、ケースバイケースですが徹底的に「人間」にコミットせねばならないことは自明です。「悩んだ末に出た答えなら 15点だとしても正しい 」ミスチル先生もこう言っています。

だから、匂いの無いものはどうもダメなのです。
楽器の超絶テクがなくても良いんです、脚本が多少怪しくても良いんです。オーダーした料理が通ってなくても良いんです。このすべては人間を、人の生活を肯定する行為なのですから。
音楽も映画も酒も、この奥ゆかしささえあれば良い。それが一番大事なのです。

と、昨晩「注文した物がなかなか出てこない、が全てが絶品、韓国人のおじちゃんおばちゃんがやってる近所の焼肉屋さん」で瓶ビールを飲みながら思いました。去り際、謎の外国産板ガムも忘れずに。

以上になります。
それでは引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

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