わたし史上最大の靴擦れから気づく「身体の可愛らしさ」

この記事は下品です。誰に対してもオススメしません。


 これだけは人間全員が改めて知っておくべき当然の事実と思っていて、それはこの記事を見つけてくれた貴方も例外ではないはずです。
 今日も語気が強いのは酒気にくわえてインターネットで匿名性が担保されているから。今日もサーバは「人生を豊かにするたったひとつのこと」みたいなシャノンの情報倫理的にみて0ビットのデータを健気に記録し計算しているのだと思うと、そこからも無邪気に学習を重ねるAIって微笑ましいなと思いますが貴方はいかがお過ごしでしょうか。
 私は経験した靴擦れをテーマに溢れる言葉を並べようとしています。

ラブは無いがストーリーは突然に

 窓ガラス越しの暁降ちが、蛍光灯の下で不機嫌に顔をしかめる私を動かしたのです。蛍みたいな欲が浮かんでは身体中を飛び回るので、追いかけるように部屋を後にしたら物語となりました。

 ふと、海が見たくなったのです。
 語彙力が乏しくて申し訳ないのですが、海ってすごくないですか?
 子どもの頃は広いな大きいなくらいにしか思わなかったのですが、月の満ち欠けで潮汐が変わるってすごくノスタルヂア。どこかの風で作られた波がここまで流れた事実もさることながら、その圧倒的な広さゆえに、いまだに専門家からは15%程しか解明されていないらしいじゃありませんか!そんな海を有名な詩からアレンジして「海は真ッ闇 闇の闇」と言いたいのです。
 ところで、ウミということばもない時に、海かどうかも分からないものを見てウと言ったことがことばの始まりで、それはクラテュロスって人が、ものの名前がどのように決まったかを「本来定まった正しい名前から決められた」と唱えたことと関係しているらしい。なんのこっちゃと思いながら、私は苦手な電車の隅の方で俯いて立っていました。

 6月某日。横浜。
 海とビルに挟まれた広い街道を、右と左を交互に見て歩きました。せわしなく捻らざるをえない首筋から生まれるもどかしさに、このときだけは草食動物の骨格が羨ましかったことを今も覚えています。
 ベンチからベタに海を眺めてすぐ、道幅の広さや車と車の間隔、お店の特色から「横浜って神戸みたいやね」と出身地でもないくせにシナプスの繋ぎ目で漂うイメージとを突き合わせながら思いました。

 今日は大道芸が予定されていたらしい。視線が集まる緊張の場面で宙高く飛んだディアボロが、彼の手元に吸い込まれました。最後しか見られなかった分、その一瞬が一撃となって重かった。
 いや、めっちゃすごいな、僥倖。(ボキャ貧)
 どれだけ練習されたのだろう。あの大技を生み出した歳月と感情を、私は想像するしか方法がない。悲しいかな、「うわぁ人生だなぁ」とIQの低い言葉しか出せませんでした。
 一人きりの苦悩と努力を、それまでも楽しんだ彼の芸の磨きに僭越ながら精一杯拍手を送らせていただき、私は公園を後にしました。


靴擦れの訪れ

 道すがら違和感があったが

かかとが、痛い。

 帰路につく頃にはアドレナリンは底を突き、思慮の大半は明確な踵への痛覚の虜となっていました。虜というか捕虜でした。
 靴の選抜を、間違えました。
 生まれた仔鹿のように玄関で脚をガクガクと震えながら靴を揃える。靴下がグロテスクに染め上げられていたあの光景は一生忘れない。踵の皮膚がミカンのように剝け、赤裸々に脱がされた身が紅く艶を帯びていた。あれは赤でも朱でもなく紅。マグロの刺身かと思いました。足が早そうだ。

 思った刹那、激痛が走った。ケガを認知した途端、決壊したダムのように身体中の全神経が靴擦れの傷に向けて流れ出す。
 「全集中・靴擦れの呼吸」
 そのときは足が遅かった。

脱がされた肉が紅くて、ちゃんと痛い

 靴擦れを起こして気づいた。今まで歩いて痛くなかったこと。
 皮膚がめくれて気づいた。今まで肉を覆っていたこと。
 絆創膏を貼って気づいた。心に関係なくかさぶたが表れて、いつか治して 消えていくこと。
 これって今も心臓がずっと動いていて、心からちゃんと血の通う身体と対面した結果だと思うのです。当たり前にある分、気づけなかった。
 「無理させてごめんね。」「治してくれてありがとさん。」
 そう思うと、自分の身体が可愛く感じられませんか?
 それらは「自分を大切に」とぎっし書かれた、繊細さんを対象とした平積みでも認識できると思うのですが、なんせわたし史上最大の靴擦れだから。ここでひっそりと肩を並べて、私なりに言い表しても罰は当たらないと思えるのです。根拠のない自信ってめっちゃ大事。私は最強。

 そんな私の経験がそのまま伝わらないから脚色して貴方に当てはめてくれたら嬉しい。原色にアレンジされて、明後日も形を変えて頭に残ってくれたら。それだけで眼福です。

表すって技術だと思うのです

 意識せずに言葉に表したとき。
 例えば。靴擦れが「痛かった」。傷口が「マグロの刺身かと思った」。
 その言葉に表すまでの過程。その人だけの感情や思考と情景の描写をコンマ1秒でそぎ落とす感じ。顕示欲はマキシマリストなミニマリストの部屋のように単色で、インスタントに装飾され言葉にはめ込まれる感じ。あの効率的に短く整えられて、興奮や驚き、寂しさの影を感じさせないで表せられる感じが好きだ。
 言葉は、感情や事実や虚構を伝えるための道具でしかない。必然的に省略されて切り捨てられて、簡素にしたものが選ばれて伝えられる。だから便利だし危なっかしい。
 それって控えめに言って哀愁だなと感じるのです。ビーナスベルトを見たような美しさと儚さ。

 これは決して悲観ではなく、むしろ技術だと称えるべきでしょう。
 それは貴方が普段選ぶ言葉もきっと同じで、だから日頃でも、一言でまとめられたその技術を、一言を選び抜いた善意と勇気を、あえてそぎ落とした決断さえも。自分で自分を可愛らしいと褒めるのが正しいと思うのです。
 謙遜が美徳と言われても、言葉を話したその瞬間を、感情を省略し圧縮して伝えたその瞬間を、もっと自分は偉いんだと誇るべきだと私は思うのです。

余談

 靴擦れを見ながら考えた。
 これ程にまで紅い部位が人の身体にあるだろうかと。
 鏡と向かい合う。ひょっこり突き出す舌を眺めながら考えた私は相当な間抜けだと思う。

 口腔ほど色は薄くないよな。。。
 口腔で思い出したが、キミはあくびをする人の口腔を不本意に見たことがあるか?
 なんで初対面の人の体内みやなアカンねん。口の中ってプライベートゾーンじゃなかったっけ?手で塞げ、急に広げて見せんな、風俗か。
 てかなんだあれ、威嚇するサルなんか。無神経過ぎない?マジでイラつく5秒前だ。チ〇ポ突っ込まれてイ〇マされとけ。

 君主論に倣って危害を加える(馬鹿にする)ときは徹底的に作品でコケにする私ですが、例えば語弊で傷つけるのは避けています。生きている限りどこかで不本意に傷つけているに違いないのですが、悪意を込めないで選んだ言葉が表現力の乏しさのせいで悪意を帯びてほしくないのです。
 しかし人前で無神経にあくびをして喉奥をみせるような輩がそんなことを考えるワケもなく、なんなら俗世は「鈍感力」「楽しんだもん勝ち」「負けないでもう少し最後まで走り抜けて」とか言って無神経を正当化する。この綺麗さ?いや、美しさを何と表そうか。ニューロンから違うのだろうか。
 
 そんな厚顔無恥が、いや、ポジティブさが羨ましい。
 他人の口腔を見たくらいで不快感を覚え、我武者羅に言葉を並べたくなるこの不憫な感性なんて不便だけど、それでも私はちゃんと自分の性格も好きだと思う。
 なぜなら、振る舞いとは他人とのコミュニティで培われた処世術で、性格とは振る舞いを経て見つけた「自分を一番傷つけないで生きるための指針」だと思うから。

 脱線した。久闊に叙す。そしてここに謝罪を述べます。人前で手を覆わずにあくびをする人へ、そのクチをチ〇ポで塞げって言ってごめんなさい。

 さて、なんの話だったっけ。そうだ、踵の剝き出しマグロの艶やかさに目を奪われながら考えたんだ。
 禍々しくて、なまめかしくて、吸い込まれそうな紅。こんな色を身体に例えたい。。。唇に近いか?

あ、あったわ。



オマ〇コだ。

人前で手を覆わずにあくびをする人へ、
やっぱりそのクチマ〇コにチ〇ポ突っ込んで塞ぎやがれ。

以上。


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