嫌いなものを話すときの無邪気さが好き

※下品な表現があるので読まなくていいです。


語彙力をなくしたときがたぶん一番生きている

 ある言葉を出すときがたまらなく興味深い。
 たとえば好きなものについて話すときの、あの子どもの顔になる須臾。
 なんとか年相応の語彙で表そうとして、失敗する感じ。

 それは嫌いなものを話すときも同じだと思う。
 あの理不尽な理由で容赦なく畳み掛けて身体いっぱいに振り切っている感じ。
 泣きじゃくる子どもみたいで可愛らしい。あぁ自我って気がする。

 まさに生まれたままの言葉を、微力の理性で辛うじて文法につなぎ合わせたのだと思えて笑える。
 そのときの「気持ちわかるよ、私もそう思うよ」と思わせない言葉が、きっと私は好きだと気づいた。


共感する奴はみんなうそつき

 何かを話す手前は誰だって考えるはずだ。きっと伝わるようにと構成と表現を瞬時に頭の中で模索する。ここでの主役はおそらく「相手」だろう。「相手」に伝わるように、と。
 しかし興奮して話すときの、特に嫌いなものを話すときの熱量と条件反射から紡がれた言葉はどうだろう。主役はおそらく「自分」になっていると思う。
 この「嫌な気持を伝えたい」には、きっと小手先のテクニックや教養を匂わせる小難しい表現が入る余地もないし、なんなら「相手」に伝えようとも思っていないはずだ。だって本当に嫌なら、気持ちを表現するだけで関の山だから。
 したがって相手の興奮した言葉に共感する場合は

  1. 聴く側がウソツキ

  2. 話す側の目的が「伝える」に重心を置いた「ニセモノ」の興奮

くらいだと思っている。

なにと戦っているんだろう

 フォロワー=地位と言わんばかりの君主もどきは、例えば誰かを非難するときにこぞって主張ではなく周知に力を入れるので、まるで桃太郎だと揶揄したことがある。
 目的は明確で地位の向上、ひいては国づくりのようなもので、興奮が連鎖しているのでパフォーマンスとしては魅力的に映る。
 見ている分には二分間憎悪みたいで面白い。

 口が上手く目的を偽り主義主張を貫くよりも集客に浸る腰抜のサル
 感化されやすく頭お花畑の純粋無垢で盲信のシアワセ者のイヌ
 見ている分には二分間憎悪みたいで面白いとか戯言抜かすキジ
 ……と、まさしくどうぶつの森である。

 そんなド汚物な私はおかげさまで捻くれているしキレイ事は嫌いだし、こんなことを書いても資本主義的には一銭の価値も得られないぞとお利口なアタマの一部が私に向けて主張している。
 にもかかわらず今も言葉で私を作っている。

 いいか、私のアタマ、よく聞け。
 お前の主張は主張じゃないぞ。
 私に言わせれば主張とは、

 好かれてはいけない身儘な言葉で、
 気持ちよくあってはいけない言葉で、
 自分を一切守らない言葉で、
 相手を疑わせる言葉なんだ。

 言葉なんて伝えるための道具使って「ただ伝える」だけなんて、椅子見せて座ることしか思わせないのと同じだろうが。
 お前の主張は時代の正論を味方につけた気でいるだけなんだ。暴論だろ。
 言わば芸能人の不倫に焚きつける正欲お化けと一緒だ。
 不倫は悪いことだ=多数派だからっていつも正しいと思うな。ピル飲んだくせに妊娠した挙句性病になれ。
 迷いながら間違いながら、でもそうしたいから言葉を並べる私の主張に、いつまでも疑ってくれ。

 さて、ここ最近で私が興奮したことをひとつ。
 あるスポーツ飲料の「ミネラル配合」の下に小さく書かれた「ミネラルとはナトリウムのことです」って最高じゃないですか?

 まるでナトリウムと書くと売れにくいのでマーケティング業界で除け者にされて、聞こえのいいミネラルに脚光が当たる感じ。あぁ、扇動やねってワクワクが止まらないのでした。

謝罪

 サルとイヌとキジを侮蔑に用いてすみませんでした。
 語弊がないように申し上げますが、これは気を悪くした貴方に向けての謝罪ではなく、サルとイヌとキジに差し出した謝罪です。


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