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【ふくろう通信04】大石静と「青い月曜日」

 紫式部の人生を描くNHK大河ドラマ「光る君へ」から目が離せない。低い身分の女性が陰謀渦巻く上流社会に飛び込み、恋に悩みながらも持ち前の才能で道を切り開いていく物語。脚本を担当する大石静の力量を改めて印象づけた。

 大石は1951年、東京生まれ。当初は女優を志し、やがて「ラブストーリーの名手」と称される脚本家になったという経歴自体はことさら珍しくないが、特筆すべきは、開高健ら多くの文士が出入りする旅館の養女として育ったこと。たくまずして男女の機微を描くうえでの基礎教育になったのではないか。

御茶ノ水の旅館「駿台荘」

 大石が生後4か月から22歳まで暮らした旅館「駿台荘」はJR御茶ノ水駅から徒歩5分、千代田区猿楽町の「とちの木通り」の高台にあった。大石の著書「駿台荘物語」(文芸春秋)によると、開高は一番狭く、一番安い、北向きの部屋を好んだ。しかし、そこで飲むワインは「(ロマネ・コンティだったかどうかは知らないが)、高級なワインだった」。駿台荘は1973年、大石の養母・犬塚雪代が女将を引退して廃業となり、いまはレンガ色のマンションになっている。

駿台荘の跡地に立つマンション

 大石は「駿台荘物語」で、開高との思い出を次のように語っている。

<『青い月曜日(BLUE MONDAY)』という小説を、本屋の棚に見つけ、その題名にひかれて買ったのは、わたしが高校三年の時だったと思う。その頃、開高先生が、よく駿台荘で仕事をされており、わたしは、こっそりサインをお願いした。(略)すると先生は、「ありがとう、開高健」と、太くて大きな丸っこい字で、書いてくださった。昨年、わたしの初めてのエッセイ集が出た時、知人にサインを求められ、「ありがとう」と書いてみた。次の瞬間、ものすごく恐れ多い気がした。それ以来、「ありがとう」と書いたことはない>

「青い月曜日」は大阪の中学時代から結婚までを描いた開高の自伝的小説。青年時代の憂鬱さを表現したタイトルで高校生を引きつけたのは、サントリー宣伝部のコピーライターとして一世を風靡したセンスのなせるわざだろう。

集英社文庫版

 開高自身はこの作品の出来に満足できず、後年、改めて自伝「破れた繭 耳の物語*」「夜と陽炎 耳の物語**」の2冊を刊行した。というのも、「青い月曜日」は前半と後半でスタイルががらりと変わってしまっているからだ。前半が文学青年的な繊細さなのに対し、後半は開き直ったような、ふてぶてしささえ感じられる。前半から後半に移る間に、ベトナム戦争取材という大きな体験が挟まったためで、開高自身、「苛烈な見聞と体験のために内心の音楽が一変してしまって、弾きやめた時点の心にもどって弾きつづけることができなくなったのである」(「青い月曜日」あとがき)と告白している。

アテネ・フランセのそばで

 大石の実母は駿台荘のフロントで働いていた。同志社大学で学んだ才媛で英語が得意。学生時代から何度も映画女優にならないかとスカウトされたほどの美人だった(大石は自身の容姿について「顔立ちから爪の形まで、イヤというほど父親似」と残念がっている)。開高はこの実母がお気に入りで、まわりに聞こえては困るような秘密の話を英語で話しかけていた。多くは、女性との色っぽい話と、「仕事やりたくない!」というような愚痴だった。

 駿台荘があったとちの木通りは明治大学や駿台予備校、語学学校「アテネ・フランセ」などが並ぶ学生街。特に、フランス語教育で知られるアテネ・フランセは駿台荘のすぐそばで、周囲の雰囲気はパリの学生街カルチェラタンを思い起こさせる。駿台荘が廃業する時、一番残念がったのが開高で、「なんとかならないのか、もったいないじゃないか」と何回も言っていたという。パリが大好きだった開高は、学生街の狭い部屋で、果たせなかったパリ留学の気分を味わっていたのかもしれない。

くすんだピンクがおしゃれなアテネ・フランセ

では、また。



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