【コラム】愛猫の亡骸写真を撮ることについて考える。
どうもこんにちわ、ワイです。(どうでもいいですが就職決まりました。ウェーイ)
最近Yahoo!ニュースにて、「ペットの亡骸写真をSNSに上げるのはOK
か?」的な記事を見かけました。
今日はそれについて語っていきたいと思いやす。
迷ってる人の参考になればいいなと思います。
■「最後の姿」をいつにするかを考える。
結論だが、私は愛猫へちまの亡くなった姿を写真にも撮らなかったし、それをSNSにも上げなかった。
理由としては「最後のへちまの写真は生きた写真にすると決めていたから」である。
まぁ、病気で峠でもう虫の息の状態で命の灯火が消えかかってる写真を撮るのも、このあとすぐ息を引き取ってその写真を撮るのも大差ない気はするが、そういうことも考えると
「痛々しくない、見ていて辛くならない姿」を最後の写真にすると決めてたってこった。
まぁ完全に私の持論なのだが、亡骸の写真を撮ったら、おそらく撮った時点でその写真を削除することはないじゃん?
だからこそ、一度撮ってしまったら、スマホやカメラの中に残るその子の最後の姿は「生きたその子の写真」ではなく「もう息をしていない亡骸の写真」になってしまうんだよね。
なに当たり前のこと言ってんの??
て思われるだろうけど、
ここから先、この子との新しい思い出は増えないわけで、そうするとどうしても過去の写真を振り返ることになるわけだが、そうした時にその子との最後の思い出が「亡骸の写真」というのはあまりにも悲しい と思ったからなんだよね。伝わるか??これ。
■でも、亡くなった姿も、その子の最後の姿。
とはいえ、まだまだへちまが元気な時に、家族会議でへちまの亡骸の写真を撮るか否かを議論したことがある。
「最後の写真は生きた写真」という結論に至るまでには、その正反対の意見として
「だって、亡くなってから火葬されるまでそんなに長く一緒にいられないやん。それなら少しでもかわいいへちまの最後の姿を長く収めておきたいやん。」と、亡骸写真を撮ることもその理由も色々考えた。
そう。まさにさっきの答えとは真逆で、「泣いても笑っても、その横たわった姿が最後なのだから、撮らなきゃ撮らないで後悔しそう」というものだった。
考えに考え抜いた結果、結局は「泣いても笑っても、生きてる写真を最後のものにする」というものだった。
結果的にそうして良かったと思う。
亡くなってから火葬されるまで約一日あったのだが、
「あともう一緒に居られるのも数時間」と思うとそのへちまの横たわった最後の姿を目に焼きつけるのに必死で、スマホで撮るなんてことは忘れていた。
幸いへちまはなんの前触れもなく、苦しむこともなくポックリと逝ったから見た目も変わらなかった。
いつもみたいにすやすや寝てるだけの姿。
声をかければ今にも起きてご飯食べそうなその姿を、しっかり最後まで見つめ、撫でて、声をかけるといった向き合い方をしたので、写真を撮るなんてことそのものを忘れてしまっていた。
■亡骸の写真をアップする人を否定してはいけない。
個人的な見解としては、愛するペットの亡骸写真を撮ることについては「好きにすればいい」と思う所存である。
最後の姿としてその子の亡骸写真を撮るのはその人なりの愛情でもあるからね。
ただ、「亡骸写真をSNSにアップする」ということになると、ぐっと賛成意見は減る。
一緒にするのは忍びないが、とてもわかりやすい例で言うと、変態プレイの写真を自分一人の心に留めておくのか、全世界に公表するのか というのに近いものがある気がする。
「猫の亡骸」という特性上、どうしても嫌悪する人が出てくるのは仕方ない。
ただ、私としては「亡骸写真をうpする人たち」にもそれなりに理由があるってことを、知っておいて欲しいと思う。
ただ、SNSという性質上、「不快」というよりかは、どうしても「かわいそうで見ていられない」という側面があるのも事実なので、うpする側も【〇〇ちゃんの亡骸写真があります】など、一応文章としてそういう写真を載せてまっせ
というワンクッションの一文を載せるくらいの配慮はしてもいいのかもしれない。
++++++++++++++++++++++++++
※Amazonのアソシエイトとして、[如月紅庵]は適格販売により収入を得ています。
++++++++++++++++++++++++++
■アラーキーの「チロ」の写真に思うこと。【※ネタバレ注意】
過激な写真を撮ることで有名なアラーキーこと荒木経惟氏の作品に『チロ愛死』という写真集があるのはご存知だろうか。
2010年頃の作品だ。
実は私もアラーキーのことはほとんど知らないのだが、だいぶ前に本屋で見たその写真集の内容は未だに忘れられない。
アラーキー宅には奥様が連れてきた「チロ」というメス猫がいた。
アラーキーはチロをひたすらに可愛がって、『愛しのチロ』という写真集まで出し、小さい頃から一緒にいる、文字通り日常を切り取ったような微笑ましい写真を載せていた。(奥様はその後亡くなったらしい。)
チロの二冊目の写真集である『チロ愛死』は、チロが段々と弱くなり、寝たきりになり、亡くなり、骨になるまでが刻々と写真に刻まれている。
チロの最後の3か月。
日に日に衰弱していくチロ。
でもアラーキーが「チロ」と名前を呼ぶと、チロは精一杯の力でアラーキーを見つめる。
その目には涙が浮かんでいるような、自分の名前を呼ぶ主人への愛情を精一杯訴えているような、見ているだけで胸が締め付けられるような慈愛に満ちた切ない表情。
そんな写真が表紙になっている。
その写真集ではチロの最後の瞬間の写真、亡くなって力無く横たわったチロの写真、そして、火葬されて骨になった写真までもが鮮明に映されている。
胸を打つのが、骨になったチロの写真の後には、その悲しみをまるで誤魔化すかのように映された何枚もの空の写真。
何枚も続く、空、空、空。
空の写真が美しくて、それが余計に悲しみを誘う。
空はこんなに美しいのに、愛するチロはもういない。
ここにはアラーキーの精一杯の愛情が詰まっている。
一見「え、猫の亡骸の写真が載っているの?」とギョッとするかもしれないが、それは私たちにはできない、写真家のアラーキーだからこそできる、愛猫チロへの愛情表現に他ならない。
チロを撮っていた時のアラーキーは、写真家の「アラーキー」ではなく、「チロのお父さん」であったに違いないことは、チロの目を見ればわかる。
私は写真家ではないし、これを読んでいる人の多くもそうでは無いと思うが、アラーキーはチロを愛しているからこそ、写真に収めた。
どんな姿になっても、たとえ骨になっても、愛しい愛猫。
その気持ちに正直になった時、
「やっぱり私はあの子の最後の瞬間を写真に撮りたい」
と思うこともあるかもしれない。
そうなったら、その気持ちを否定しないでいいと私は思う。
猫が元気なうちは、そんなことを考えもつかないだろうが、元気なうちにこそ、こういった「最後のこと」は考えておきたい。
気持ちに、余裕のあるうちに。
アラーキーのチロの写真集、本当にオススメです。是非読んでみてほしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?