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砂子水路観桜舟について

門真市三ツ島、砂子水路。
川沿いの桜並木が美しい場所はたくさんありますが、田舟に乗りながら桜のトンネルをゆったりとくぐり抜けていく、そんな場所は希少だと思います。

この辺りは、昭和31年に門真町に四村合併される以前、二島村と呼ばれていました。土地の低い湿地帯で、名産品の蓮根、クワイなどが栽培されており、村の中は水路がはり巡らされていて、移動手段として使われていたのが田舟です。

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砂子水路の観桜舟は、子どもの頃から田舟に乗って移動していた地元の男の子達が、桜並木保存会を結成し、70代、80代になった現在も、ボランティアで運行しておられるものです。竹竿一本で田舟を器用に操り、なんの問題もなく水路を行き来しているのも、幼い頃から身体で覚えた細かいコツを身につけておられるからこそできること。年季が入っている、熟練の技です。

稲刈りの時期になると、子ども達も学校を休んで手伝い、籾(もみ)を田舟で運んだそうです。持ち帰った籾を拡げて天日干しにし、毎日ひっくり返して1週間ほどかわかす作業は子ども達の仕事だったとか。乾燥が足りないと、脱穀した時に籾殻がきれいに剥がれず、すぐにわかったそうです。今では考えられないほどに、農作業に手間がかけられていた、ほんの70年ほど前の話です。

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水路で鰻やコイ、フナなどが釣れた話もうかがいました。朝、学校に行く前にエサを仕掛けておき、放課後に釣果を回収に行ったとか。のどかな田園地帯の風景がひろがっていて、子ども達が無邪気に遊びまわっていたのだろうなと想像します。

京阪古川橋駅ができた頃は、まだ周辺に建物などはあまりなくて「見渡せた」そうです。古川橋駅は明治43年の開業なので、それから徐々に開発が進み、パナソニックが門真村に大規模工場を建設した昭和8年頃から、町の姿もどんどん変わっていったのでしょう。かつては農村地帯であったものが住宅や工場に変化し、門真は企業城下町としてあらたな発展を遂げてきました。

時代の流れとともに、道路が整備され、水路が廃止されていきました。今も残っている水路はほんの一部分ということになります。村の中をすいすいと行き来していた田舟もかつての役割を終え、今は、桜の季節の観桜舟として、わずかに形を残しているのみです。

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しかしこの田舟、保存会の皆さまにとっては、子ども時代の記憶がよみがえる、大切な大切な田舟なのだと私は確信しています。なぜなら、毎年この時期、この観桜舟を出すために皆さんがボランティアで集まり、舟を倉庫から出して綺麗に洗って、竹竿に新しく布を巻いたりして手入れし、昔の話をいろいろと話して笑い合いながら、実に楽しそうに、嬉しそうに運行されている姿を拝見しているからです。2年前には、田舟をきれいに修繕して塗り直し、「令和桜丸」と名付けて桜のモチーフを手描きで描いて、リニューアルされました。ご高齢で身体は少ししんどくなっていても、気持ちは皆さん少年時代に戻っている、そんな雰囲気で、保存会を運営されています。

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今年も昨年に続き、コロナで観桜舟の運行を中止せざるを得ませんでした。保存会の皆さまも、がっかり、残念無念だと思いますが致し方ありません。しかし、そんな中、本日は関西テレビが取材に来られるということで、撮影のために、特別に舟を出されました。わずかな時間だけとはいえ、今年も舟を出して水路を行き来できたことで、保存会の皆さまにとっても、今日は佳い日になったと私は感じました。暑すぎるぐらい暑かったですが、快晴の空の下、散り初めの桜の花びらがひらひらと舞い降り、テレビのカメラマンの方々も美しい映像を撮っていただけたことと思います。

毎年、乗舟を楽しみにしていただいている市民、市外の方もたくさんおられると思います。今年はテレビ映像でお楽しみいただき、コロナが収束したあかつきには、ぜひ、砂子水路にお越しください。
昭和初期のノスタルジーを乗せて、令和桜丸にてお待ちしております。

(画像の一部は昨年撮影のものです)

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