池田の生い立ち②~あの日の記憶をわすれないために~

母の病気

そんな全く両極端の両親の家系で育てられた私だが、母は昔から病気がちだった。私が小学校4年生あたりから、入退院を繰り返していて、強い薬の影響で髪の毛が抜けていた時期もあった。それでも決して悪い病気ではなく必ず治るものと聞いていたので私たち兄弟は安心していたのだ。
ただ私の記憶に強く残っているものがある。
おそらく小学6年生くらいの時だったと思う。いつもは朝6時くらいに母親が起こしに来るのにその日は来なかった。目が覚めて時計をみると7時を示しいた。ところが母親はまだ朝ご飯を創っていないどころかまだ寝ているのだ。
二段ベッドの下の弟もまだ寝いているし、別室にいる姉もまだ寝ている。
もう学校に行かなくてはいけない時間だ。なにかおかしいと思ってベッドを降りて母さんは起こしてみた。すると起きてはいるのだ。けどなにか苦しそうにしている。私はひたすら母さんに「大丈夫?大丈夫?」と声をかける。母さんは大丈夫だというようにうなずくが明らかに大丈夫ではない。私はすぐそこで寝ていた弟を起こして、一緒に呼びかける。「お父さんを呼ぶね」と朝は卸の仕事で外に出ている父を呼ぼうとするが、母は大丈夫だからと言うように首を横に振る。そして頑張って立とうとしているのだが、バランスを崩してまた倒れたのだ。これはダメだと思い私は父に泣きそうになりながら電話した。「お母さんがおかしい」
それを聞いたお父さんはものの5分ちょっとで車を飛ばしてきて母をみるや救急車を呼んで母は運ばれていった。
心配でありながらもその日は学校に通い、帰った時に母の命に別状はなく安静にしていれば大丈夫だと聞いたときは心から安心したものだ。
それからしばらくは母はまた入退院を繰り返し、入院しているときは、父はどうしても会社で夜や朝はいないので大阪の祖父母が家に来て私たちの世話をしてくれていた。
中学校に上がった時と同時に私は携帯(その時はガラケー)を買ってもらい入院中の母とメールでやり取りをしていたのはよく覚えている。バスケで一つ上の先輩が1人もいない私たちは中学1年の時は負け続きだった。でもその試合を実際に見に行けないけどいっつも楽しみにしてくれていて応援してくれていた。

あの日の記憶

思いだしたくはない、しかし忘れたくもないあの日の記憶。
私が中学1年の時、12月の中旬ごろだった。母親は入院中で代わりに宝塚の祖母が家に来てくれていて朝ごはんや私たち兄弟の面倒を見てくれていた。
朝5時44分、家に一つの電話が鳴った。その電話で私は起きた。こんな朝早くに電話とは珍しかったからだ。その電話に祖母が出てしばらくして寝室の戸を開けて祖母が私に言った。「こうちゃん、お母さんが病院でたおれたんやって」と。弟と姉を起こして、父が迎えに来て5人で私たちは母が入院している静岡のがんセンターに向かった。なにか嫌な予感がする。でもきっとお母さんは大丈夫だ。いつも通りきっと帰ってくる。そう車の中で私は念じていた。
病院につくと、そこにはお医者さんや看護師さんに囲まれながら人工呼吸を受けている母の姿がちらっと見えた。その後私たち家族は別室に案内されてそこでしばらく待たされた。
ちょっと経ってからお医者さんが来て、こういった。母さんは夜中、自分でトイレに行ったがそのあと倒れてしまい、しばらく心臓が停止してしまった、と。
そういった瞬間、姉が泣いている声が横から聞こえた。しかし私は泣いていなかった。なぜならニュアンス的に過去形で今は動いているということだろ、と思ったからだ。
実際、今は母の心臓は動いているらしかった。生きているなら問題ない。時間が経てば笑い話だ。そう思いこませて私は無理やり自分を安心させようといていた。
しばらくして、ひと段落したのかようやく母親に対面できることになった。
いつもの個室ではなく、多くの看護師さんがいて、いろんな機械があるところに私たちは案内された。そこに意識はないが確かに生きている母の姿があった。私はその姿をみて、死ななくて本当に良かった、と安堵したが同時にちょっとした違和感を感じた。周りに看護師さんやお医者さんが沢山集まっていて、中心的に話している優しそうなお医者んは何か言いたそうな表情をしていたからだ。

その場を離れ、私たち家族は病院の中にある畳の部屋の案内されてここで待機するように言われた。父と祖母は話があるといいお医者さんと話しにいった。畳の部屋はほんの8畳くらいの部屋だった。洋風な病院の中にこんな個室で和風な部屋があること自体が意外だった。そこで私たち兄弟は得になにも話すことはなく、ただひたすら父と祖母の帰りを待っていた。母は意識はないけどきっといつも通り戻るに違いない、だからきっと大丈夫だと。

祖母が帰ってきた、なぜか目が赤かった。姉がお医者さんは何て?と聞いたが、祖母はお父さんから伝えるから、と言って話さなかった。そしてそう時間が経たないうちに父も帰ってきた。父も目が赤かった。
父は話があると言い、私たち兄弟を狭い8畳の部屋の中心に集め、話始めた。その時の情景は今でも鮮明に思い出せる。
「いいか、お母さんな、もう助からないかもしれない。」最後の方は言葉を聞かないうちに私たち兄弟は3人とも泣き崩れた。「もしかしたらあと2,3時間かもしれないし、数日かもしれない。」と父も泣きながら続けた。
まだかすかにあった希望が一瞬にして崩れ去り、一気に絶望の淵まで落とされた気分だった。そんなはずはない、夢ならはやくさめてほしい。そう願ったがこの悪夢が覚めることはなかった。次から次へと流れてくる涙。この涙はもう永遠に止まることはないのではないかと思うほど深い深い悲しみの中にいた。おそらく数時間ほど8畳の畳の部屋でずっと私たち3人は泣いていた。そのあとのことはあまり覚えていない。見えている世界は暗く、かすかにある希望としてはまだ母は生きているということだ。あと数時間かもしれないと父は言ったが、母はその日はもちこたえた。私たち兄弟は沼津の家に帰ることになった。

次の日、学校に行くと、いつも一緒に学校に行っている友達に「なんで昨日来なかったの」と聞かれたが、その質問に正直に答えることはできなかった。いつも通り朝一番に学校について朝練でグランドを10周走る。走っている間でさへ1人になると泣いてしまう。風呂や寝るときなんていうまでもない。涙を流さない日自体がそもそもなかった。
年末になり、母はまだ持ちこたえていた。意識はないが、声をかけると、なんかちょっと反応があるようなきがする。私の中にはまだかすかに希望があった。目が覚めてくれればきっといつも通り大丈夫なはずだ、と。



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