なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまうのか【考察②】

※2014年執筆

(続き)

3−3−3.スポーツと心

どうしたら苦手、劣っている、できないから恥ずかしいという意識を払拭することができるか。

人はなぜスポーツをするかというスポーツ行動とその動機に立ち返って考えたい。その理由は諸説ある。2)

スポーツは闘争に由来する(闘争説)、遊戯から分化したものである(遊戯説)、活動自体が目的である(自体目的説)、抑圧された衝動の偽装である(偽装説)、祭祀・行事・呪術・魔術などに由来する(行事説)、余剰勢力のはけ口(余剰説)、基本的生活手段の転化、種の原始的行動の復活(転化説、復活説)

である。

闘争説、遊戯説、自体目的説はスポーツという文化的な営み全体の目的と価値あるいは存在理由を説明するものであり、偽装説、余剰勢力説は抑圧された衝動・潜在的リビドー(心的エネルギー)を仮定するものである。

さらに現代人にとってスポーツの意義や価値には以下のようなものがあると言われている。3)

① 自己および自分の身体との交流
② 健康と安寧
③ 「物的なもの」との交流、自然との交流
④ 人との交流
⑤ 刺激、興奮、緊張
⑥ 美的・ドラマチックな体験
⑦ プレイの体験

確かに、運動において得意・不得意はあるが、スポーツは技を競う文化である。競争とは、競争(competition)の語源コン―ペティティオは、「共同の努力」を意味する。この努力は共同で努力する「他者」を必要とする。4)
つまり、勝敗、優劣などの競争は、技の追求において互いの同意のもとで行われるものである。楽しみとして重要な要素であるものの、文化的な営みの外に出たときに、他人との優劣は意味をなさない。遊びにおいては、競うことに楽しみがあり、技能の目標値などはないため不得意もなにもないはずである。
しかし体育において技術習得、体力強化も目標としている限り実技の評価をするということは必要である。身体的ストレスは不可欠であるので適度に加えなければならない。教師や生徒の数を変えることも現実的でないとするならば、発生する「恥ずかしさ」や「劣等感」などの心理的ストレスはどうすれば払拭できるか。

為末大氏(2012)が『「恥ずかしい」という気持ちが、成長を止める』と書いている。シドニーオリンピックの男子400メートルハードルで転倒したときのことを振り返り、

「失敗したら人がどう思うだろう?そんな考えを基準に、さまざまなことを選択している自分に気がついたのだ。(中略)表面にあったのは、人から認められないことへの恐れ。」
「恥への対処の仕方でよくあるのは、それを失敗と思われないようにと、上から塗り固めてしまうこと。恥そのものは無くなっていないけれど(中略)自己を正当化したり、言い訳をしたり、感じないように努力する。」
「失敗が恥ずかしい。その気持ちを克服しないまでも、きちんと向き合っておく方が、結果として競技力向上につながる。(中略)恥というハードルは、一生かけて超え続けていくものなのかもしれない。」

としている。

また、スポーツ心理学者、コーチ、選手であるキース・ベル(2007)は言い訳をしてしまう状況について以下のように分析している。

我々は、何をし、どの程度上手く行えるかで、自分の価値を決めてしまう傾向があります。水泳で言えば上手く泳げばいい人間、あるいは少なくともまともな人間で、悪い泳ぎをしてしまうと、悪い人間、たいしたことのない人間と思われてしまう可能性があるということです。(中略)どれだけ速く泳いだかは、どれだけ上手く泳げたか(自分の目標、ベストタイム、時間の短縮、他の人の泳ぎと比較して)、どれだけ効果的に泳げたか、どれだけ努力したか、あるいはどれだけ練習してきたかを示してはいるでしょうが、どれだけあなたがいい人間かを示してはくれません。(中略)これからの泳ぎをもっとよくするためという視点で、どう泳いだかを評価することは意味があります。(中略)泳ぎによって自分を評価していると、いずれあなたの泳ぎも影響を受けます。泳ぎは遅くなり、楽しくもなくなるでしょう。
 自分を受け入れてください。あなたはいい人でも、悪い人でもありません。もちろん、どんな泳ぎをしようと、いい人にも悪い人にもなりません。あなたはただ水泳をする人間です。自分ではなく、自分の泳ぎを評価してください。

「心」の部分で日本の体育においてよく求められるものは、「チームワーク、集団行動」である。

「心」の教育においてもさらに”個人単位”での「心」の教育をすべきではないかと考える。技能や体力をのばす、もしくはすべての文化の文化的価値を享受するために、他者に惑わされず正しく評価し自分の表現を磨いていくという重要な心構えとなるだろう。さらにキース・ベルはこのようにも述べている。

「水泳はただのゲームです。一生懸命プレイしてください。勝つためにプレイするのです。でも、自分の人間性までゲームで決めないように。」

スポーツのゲームにおける競争と、授業の技術到達度の評価を混同しないことを学ばなければならない。スポーツの競争性をゲームの外に出してはならない。さらに言うならば、教育においても競争をさせるのであれば、お互いの同意で行われる営みであることを学ばなければならない。その後の人生においても勝つことで自分の人間としての価値が決まるのではないことを学ばなければならない。そのために体育はどう変わるべきか。

体育がスポーツを自ら楽しみ継続する態度にプラスの影響を与えないというところでも述べたように、スポーツはスポーツとして独立してその価値や目的を認められる必要がある。体育で行うスポーツは、あくまで体育の目的を達成させるための手段として扱われがちであるため、スポーツそのものの価値や目的を教える場が必要である。海外では、「体育」が別の教科として「スポーツ教育」が行われているところもある。スポーツそのものの文化や価値を学ぶ教科であり、「体育」とは全く内容または目的を異にするものである。このように、科目をはっきりと分ける、もしくは、体育の中でスポーツの価値やスポーツそのものを目的として行う教育も行うべきではないだろうか。

3−3−4. 余暇時間とスポーツ

図7で、現在スポーツ・運動を「行っていない」と答えた人のなかで134人、実に70.2%が「したいとは思う」と答えている。
図8より、現在スポーツを行わない人たちの理由として、58.6%が「時間が無い」、54.5%が「機会がない」と答えていることがわかる。

機会がない、場所がないということに関してはその開催にはお金がつきものであり、ビジネス的に利益が出ないと、その環境は改善されないような状態である。スポーツが商品としてパッケージ化され普及してきたことも、場所や機会が囲い込まれた原因である。

また、公共の公園は緑化を重視し、けがなどのリスクの高いものや責任の所在があいまいなものはおかれないようになっている。それぞれの取り組みを助長するためには、クラブ入会などせずともお金をかけずとも近場で活動できる場所が必要である。あらたまってスポーツをしなくても自主的に気軽にスポーツをする場所が必要である。そこには自己責任がともなうことも認めなければならない。

また、仕事が時間を大きく占める社会人は「時間がない」というのは、スポーツが余暇時間で発達させてきた文化的側面を持つため、スポーツを行わない要因となりやすい。よってチームスポーツや何人か集まって同じ時間に行うことは時間のない社会人にとっては困難であり、実際にアンケートの「行っているスポーツ、または運動の内容をお書きください。」「どういった場所で行っているか(ジム、スポーツセンター、公園など)お書きください。」といった質問で、個人的にジムに通う、近くの公園でジョギングするなど自分の時間の中で行う人が多いことがわかった。

心身の健康とスポーツを結びつけた考え、ビジネスが広がっているが、体の健康に関して言えば、その解釈は間違っている。運動を行うことで酸素の消費量が増え、それにつれて体内に「活性酸素」と呼ばれる猛烈な毒が発生し、生体をいためつけるのである。スポーツは体にとってストレスで、酸素毒においても体にとってよいものであるとは言えない。運動が健康に良いとされるのは、過度な肥満などが病気の原因で、その肥満解消に有効であるからである。直接的には健康に良い訳ではない。直接的には体にストレスをかけず血流を良くする程度のウォーキングが良いとされる。

それでもスポーツが行われるのは、それ以上の文化的価値を認められているからであるし、仕事や勉強の疲れを癒やし,元気を回復し英気を養う時間として、生活時間と労働時間の間となる時間が必要であると考える。スポーツの価値を存分に活かし長く継続的に享受するためには、生活構造の分化、目的や欲求のレベルに応じてスポーツとその方法を自ら選択すべきである。現代のスポーツは、

①avocationとしてのスポーツ
②チャンピオンシップ・スポーツ
③プロフェッショナル・スポーツ

のおおよそ3つのカテゴリにわけられる。5)。

さらに、労働条件、余暇条件、主体条件(個人、集団)の組み合わせからふさわしいレクリエーションを選ぶのである。これをスポーツ処方法とも呼ばれ、「するスポーツ」における重要な考え方である。大学生や社会人は生活構造からこのような関わり合い方でスポーツを継続することが望ましい。

3−3−5.「観るスポーツ」と「するスポーツ」

目的や欲求に対して「するスポーツ」で満たす他に、観ることで満たすことも行われてきた。6) するだけでなく観ることによってもスポーツの文化的価値を享受する。「観るスポーツ」は「するスポーツ」の質や価値を上げ、「するスポーツ」はスポーツを観ることへの関心を高めるなど、相互に関係し支えている。

しかし、アンケートからみると、観るスポーツはするスポーツとあまり関係なく独立している。(図9)スポーツ観戦のビジネス化は、興奮や感動を求めるのみで、するスポーツへの還元(それによってするスポーツの質や価値を上げる)がなされていないのではないか。ほとんどが「するスポーツ」の代替として行われている。興奮や感動を求めるばかりで自らへの還元がなされないため、バッシングや暴動が起きやすい。するスポーツへの還元が損なわれれば損なわれるほど、バランスが崩れゲームからはみ出た過度な競争が起きたり、もしくはプレイの概念が損なわれたりする。

「観るスポーツ」と「するスポーツ」と乖離させてはならない。スポーツは競争性、プレイの概念を持った人類の文化である。現代の人類の文化や社会は、人類が豊かさを求めた結果である。物を作ることで豊かさを築いて来た時代も終わりつつあり、自然とともに資源を上手に使う文化が根付きつつある。同じように、スポーツもその快楽や豊かさを求める一つの動きである。しかし、ビジネスの効果も加わりその流れは間違った方向に急速に向かいつつある。このままいけば過度に快楽や豊かさをもとめる人が増え、その本質を見失ったとき、スポーツには終わりが来る。それは良いことでも悪いことでもなく、そういった人類の流れである。そのときはまたあらたに豊かさや幸せの社会基準が変わるときであり、豊かさとは何かが問い直され、あらたにスポーツのありかたが見直されるであろう。

社会の流れに関わらず、個人個人で豊かさについて考え、スポーツとの関係を構築していくことが重要である。スポーツの文化的価値(競技性とプレイ)を重んじ、変容する文化的意義をともなった人類の文化として残していくならば、スポーツが絶対的に良いものではないことを心に留め、社会の価値基準ではなくそれぞれの価値基準においてなされなければならない。

(結論に続く。)

(参考・引用文献)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?