分かっているのに刺される。
今日の写真は、蜂の集合写真。
今日は、同じ職場だった人と、「なんで、あの人はああいう人だって分かってるはずなのに、傷ついたり、苛ついたりするのだろう?」という話になった。
紆余曲折があって、分かったはずなのに。
何故なんだろうか。
心のどこかで、まだ「本当はそういう人じゃない」と信じたいとでも思っているのだろうか?
だとしたら、私たちは、かなりの楽天家でお人好しだということになってしまう。
どうなんだろう。
そう言えば、その昔似たような事があった。
私には、家族に意見を求め、否定されたとたんに、諦めてしまうという負のループに陥ってしまっていた時期があったのである。
そして、それに気付いてからは、自分で決め、報告だけをすることにしたのだ。
だから、進路について、家族に相談した記憶はない。
しかし、それでも、どうしても背中を押してほしくなり、逆に出鼻をくじかれてしまうということは度々あったと思う。
背中を押してもらえないとわかっていたはずなのに。
きっと、心のどこかで、「今回は、違うかもしれない」と期待してしまっていたのだろう。
あの頃の私は健気だったのだ。
でも、年を重ね、それなりに、分かったことがある。
否定されると諦めてしまっていたのは、
私が自分に自信がないからであり、
意志が弱いから。
そして、それを人のせいにしていただけだったのだ。
そして、人の言動に傷ついたり苛ついたりするのは、
自分に弱さがあり、
自分に自信がないから。
加えて、跳ね返す強さがないから。
分かっているのである。
いや、分かってるつもりなだけかもしれない。
どちらにせよ、まだまだ不十分なのである。
だから、刺されると分かっているのに、目の前の蜂蜜ほしさに、蜂の巣に手を入れそうになったり、逆に刺されないと分かっているのに、空っぽの巣に手を入れられなかったりするのだ。
しかし、どちらにしても、蜂蜜は手に入らないのである。
残念ながら、私は無邪気に「はちみつたべたいな」と言いながら、はちみつをむさぼる、くまのプーさんにまだまだなれないのである。
周りなど関係なく、大好きな蜂蜜を食べたいときに食べるプーさんには、程遠いのである。
話がずれてしまったが、
「あの人がああいう人だって分かっているのに傷ついたり、苛ついたりするのだろう」についても、自分の境界線がしっかりしていたら、そうはならないのかもしれない。
自分の言動に自信があったら、相手の言動も割りきれるし、境界線がしっかりしていたら、相手とも正しい距離で接することができるのだとも思う。
でも、やっぱり私は、割りきるより、受け入れたいと思ってしまうのだ。
小数点切り捨てではなく、四捨五入。
でも、小数点切り上げではなく、四捨五入。(私もそこまでお人好しではないので 笑)
だから、いけないのかもしれない。
でも、最後にひとつだけ。
私は、冒頭に出てきた一緒に「なんでだろう」と言い合える人に、出会えたことに感謝している。
そして、それぞれ、お互いに笑顔で進んでいけたらいいなと思っている。
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